初夏の終わりを感じさせる、湿度の高い午後だった。
窓の外では、柔らかな陽射しが庭の紫陽花に水色の影を落とし、遠くでカラスの鳴き声が一瞬だけ静寂を切り裂いていた。
その日、私の家の玄関先に、小さな男の子が立っていた。
まだ幼児らしさの残るふっくらした頬、小さな手でしっかりとリュックの紐を掴み、視線の先には私と両親――つまり、じいじとばあば、そして『おねえちゃん』である私が並んでいた。
「ままが びょうきだから、おとまりさせてね」
甥っ子は、ほんの少し震えた声でそう言った。
その声には、どこか遠慮がちな響きと、幼いながらに状況を理解しようとする健気さが混ざっていた。
彼のリュックからは、母である妹が選んだであろう着替えやタオルの端が、少しだけはみ出している。
新しい環境に対する不安と、家族の温もりを渇望する気持ちが、その小さな肩に重くのしかかっているのが分かった。
甥っ子は以前から我が家によく遊びに来ていた。
畳の匂い、リビングの古い棚に並ぶ写真立て、台所から漂う出汁の香り――どれも彼にとっては馴染みのあるものだった。
そのため、家の中に入った瞬間、彼はすぐに緊張をほぐし、小さなスニーカーを器用に脱いで玄関に並べた。
彼の足音が廊下に響くたび、家の空気が柔らかく揺れるような気がした。
昼間は、じいじとばあばが交代で甥っ子の遊び相手を務めた。
じいじは庭で虫取り網を振るい、ばあばはおやつの時間に甘い手作りゼリーを出してくれる。
私は「おねえちゃん」として、折り紙やお絵描きに付き合い、時折、窓辺で風の音に耳を澄ませながら彼の話し相手になった。
リビングのテレビからはアニメの主題歌が流れ、時折、甥っ子の笑い声が家中に響き渡った。
その声はまるで、妹のいない穴を埋めるように、家族全員の心をあたためてくれた。
夕暮れ時、家族みんなで近所のファミリーレストランに出かけることもあった。
夕陽が店の窓ガラスをオレンジ色に染め、テーブルには甥っ子のための子供用カレーと、私たちの注文した料理が並んだ。
スプーンを握る小さな手、口元に付いたルー、ふとした瞬間に「ままも すきなやつだよ」と呟く彼。
食後、冷たいアイスクリームが口の中で溶ける感覚とともに、甥っ子の顔に満足げな笑みが広がる。
その無邪気な笑顔が、私たちの細かい不安を一つ一つ消していくようだった。
夜になると、少しずつ家の中の音が静まっていく。
蛍光灯の淡い光の下、布団を並べて寝る前のひとときがやって来る。
甥っ子は、その晩誰と一緒に寝るかを毎晩のように自分で決めていた。
「きょうは、じいじと ねる」「きょうは、ばあばと ねる」――彼が布団に潜り込むたび、誰かが優しく背中を撫で、静かに見守る。
布団越しに伝わる体温、子供特有の汗ばんだ肌の匂い、夜の静けさの中に響く寝息。
甥っ子は、安心しきった微笑みを浮かべながら、眠りに落ちていった。
その寝顔を見つめる私たちもまた、彼の無垢な存在に救われていたのかもしれない。
ある晩、私は彼の寝顔をぼんやりとながめていた。
部屋の隅には古いランプがほのかに灯り、カーテンの隙間からは月明かりが線のように床を照らしていた。
突然、甥っ子が小さな声で呟いた。
「ままは、びょうき なおったかなぁ〜」。
その声は、夜の静寂に溶け込み、しばらく空中に漂っているようだった。
私は、「寂しい?」とそっと尋ねてみた。
すると、彼は目を細めて「ううん、だいじょうぶ!」と明るく微笑んだ。
その瞬間、彼の中にある強がりや、幼いなりの気遣いが見え隠れした。
表面上は元気に振る舞いながら、心の奥底では母親への不安や寂しさを懸命に押し込めている。
そのことに気づき、私たち家族は思わず目を合わせ、胸が締め付けられるような感情を共有した。
「子どもなりに、気をつかっているんだよね……」と、ばあばがぽつりと呟いた。
時は流れ、妹の入院から十日ほどが経ったある夜。
外はしとしとと小雨が降り、雨粒が窓ガラスを静かに叩いていた。
私は自分の寝室で布団を敷いていると、甥っ子が小さな足音を立ててやってきた。
「きょうは、おねえちゃんと ねる〜」と、少し照れたような声で言い、私の布団に潜り込んできた。
彼の体からは、寝る前にばあばが塗った子供用ローションの優しい香りが漂っていた。
枕元で、彼はぽつりと口を開いた。
「おねえちゃん、ぼく、あした おうちに かえるね。
しばらく かえってないからね」――その言葉は、私の胸の奥に小さな針が刺さるような衝撃をもたらした。
現実には、妹はまだ退院できず、甥っ子が家に帰れる見通しはまったく立っていなかった。
しかし、私は彼の小さな希望を壊したくなくて、ゆっくりと「そうだね、そのうち おうちに帰ろうね」と優しく答えた。
翌日、いつも通り甥っ子は朝から元気いっぱいだった。
リビングを駆け回り、じいじと虫取りに出かけ、ばあばの作るおにぎりを頬張る。
家のことも、ママのことも、何一つ口にせず、ただ明るく振る舞い続けていた。
しかしその晩、また私の布団に入ると、昨日と同じ言葉を繰り返した。
「おねえちゃん、ぼく、あした かえるね」
私は心の中で呟いた――この子は、本当はずっと我慢しているんだ。
ママに会いたくてたまらないのに、私たちに気を遣って、寂しさを隠している。
彼の背中越しに伝わる呼吸の速さ、時折布団を握りしめる小さな手の震え、微かな唇の噛みしめ。
私は思わず彼を抱きしめ、「そうだね。
明日になったら、ママに会いに行こうか」と語りかけた。
その時、甥っ子はほんのわずかに笑みを浮かべ、目をこすりながらこう言った。
「おねえちゃん……あしたは、なかなか こないねえ」。
その一言に、私は返す言葉を失った。
時間の流れが一瞬止まったように感じた。
彼の小さな背中に、どれほどの寂しさと、どれほどの希望が詰め込まれているのだろう。
私は初めて、甥っ子の「我慢」という感情の重さを、身体ごと受け止めた気がした。
ふと気配を感じて横を見ると、襖の隙間からばあばが私たちの様子をじっと見つめていた。
ばあばの頬には、静かに涙が伝っていた。
その涙は、家族の誰もが感じていたけれど、言葉にできなかった痛みと愛情が滲み出たものだった。
こうして、甥っ子との日々が静かに積み重なっていった。
彼は約一ヶ月もの間、私たち家族とともに暮らした。
季節は少しずつ移り変わり、朝晩の空気は少しずつ秋の気配を孕み始めていた。
家の中には、甥っ子の笑い声と、時折見せる寂しげな横顔、そのどちらもが色濃く残っていた。
やがて、妹の退院が決まる日がやってきた。
朝、家族全員がどこかそわそわと落ち着かなかった。
家の中の空気が、これから訪れる変化を期待と不安の入り混じった色で染めていた。
玄関のチャイムが鳴ると、甥っ子はぱっと顔を輝かせ、スリッパを脱ぎ捨てて走り出した。
「まま!」と何度も何度も叫びながら、ママとパパの元へ一直線に駆け寄る。
母親の腕の中に飛び込んだその瞬間、甥っ子の小さな体が弾けるように震え、その顔には抑えきれない喜びと安堵の涙が浮かんでいた。
私たち家族はその光景を、言葉もなくただ見守ることしかできなかった。
心の奥底から込み上げてくるものを必死に堪えながら、目頭が熱くなるのを感じていた。
あの日々、甥っ子が小さな体いっぱいに詰め込んでいた気持ち――それは、私たちにとっても忘れられない宝物となった。
今でも、ふとした瞬間に思い出す。
あの小さな背中、笑顔の奥に隠していた涙、そして再びママの腕に包まれたときの、あふれるばかりの幸福の光景。
甥っ子が見せてくれたあの強さと優しさは、私の胸の奥に、あたたかな余韻として、いつまでも消えずに残っている。
感動する話:小さな背中に詰め込まれた寂しさと希望――甥っ子が過ごした「ママのいない」一ヶ月の記憶
小さな背中に詰め込まれた寂しさと希望――甥っ子が過ごした「ママのいない」一ヶ月の記憶
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント