母が病に伏した春の夜、甥は静かにわたしたちの家へやってきた。
まだ冬の余韻が残る三月、夕暮れの光が窓辺に淡く射し込み、埃が宙に舞っては消えていく。
その小さな影は、リュックサックを肩にかけて玄関に立っていた。
「ままが、びょうきだから、おとまりさせてね」
言葉は幼いが、表情にはどこか覚悟のようなものが浮かんでいた。
子どもの唇からこぼれるその響きが、不意に胸の奥をかき乱す。
甥は、幼いながらも家族の輪の中にすぐ馴染んだ。
昼間は祖父と将棋を指し、祖母と庭の草花を摘み、そして「おねえちゃん」と呼ぶわたしと、積み木を積んだり、絵本を読んだりした。
家の中に笑い声が満ちると、遠い不安も一瞬だけ遠ざかっていくようだった。
夜が深まると、彼の楽しみが訪れる。
「きょうは、じいじと ねる」
「きょうは、ばあばと ねる」
そのたびに、布団の中で小さな手が誰かの手を探す。
子どものぬくもりは、冬の名残を溶かすように、優しく、しかし確かにわたしたちを包んだ。
それでも、ふとした沈黙の瞬間に、甥の瞳が宙を見つめることがあった。
「ままは、びょうき なおったかなぁ〜」
その問いかけに、胸がしめつけられる。
「寂しい?」と尋ねると、彼は首を横に振り、
「ううん、だいじょうぶ!」
と、明るく微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥に、幼いなりの気遣いが見え隠れしているのを、わたしたちは知っていた。
十日ほどが過ぎたある晩のことだった。
外は雨。
車のヘッドライトが、濡れたアスファルトを白く照らしていた。
甥は、わたしの布団に潜り込むと、ぽつりとつぶやいた。
「おねえちゃん、ぼく、あした おうちに かえるね。
しばらく かえってないからね」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる気がした。
妹の病状はまだ安定せず、帰宅の目処もなかった。
けれど、わたしは静かに頷いた。
「そうだね、そのうちおうちに帰ろうね」
その翌日も、甥は何事もなかったように明るく過ごした。
祖父の膝で笑い、祖母の手を引き、家中を駆け回る。
ママのことは、まるで遠くの星のように、誰にも話さず——ただ、夜になると、またわたしの隣に並び、同じことを言った。
「おねえちゃん、ぼく、あした かえるね」
彼は、ずっと、がまんしていたのだ。
会いたい気持ちを、幼い心に閉じ込めて。
わたしは、彼の小さな背中に、そっと手を置いた。
「そうだね。
明日になったら、ママに会いに行こうか」
甥は、ほんの少しだけ、遠慮がちな笑顔を浮かべた。
「おねえちゃん……あしたは、なかなか こないねえ」
その言葉に、わたしは返す言葉を失った。
彼の心の中で、明日という名の希望が、どれほど遠いものだったのか。
その小さな肩に、どれだけの寂しさが宿っていたのか。
ふと視線を横に移すと、隣の部屋から、祖母がそっとこちらを覗いていた。
瞳には涙が溜まり、頬を伝い落ちていた。
季節はゆっくりと進み、甥とわたしたちの暮らしは、静かな繰り返しとなった。
朝、パンの焼ける匂いが台所に満ち、昼には風に揺れるカーテンが部屋を横切る。
夜は、彼の寝息が小さな波のように、静寂に溶けてゆく。
やがて、妹が退院する日がやってきた。
春の終わり、桜の花びらが風に舞う午後だった。
ママとパパが玄関に現れると、甥は声もなく駆け出した。
「まま!」
その叫びが、家中に響き渡る。
何度も、何度も。
わたしたちは言葉を失い、ただその光景を見守るしかなかった。
小さな身体に詰め込まれていた、大きな想い。
その日々の記憶は、今も胸の奥で、静かに、けれど確かに温かく灯っている。
感動する話:明日を待つ小さな背中──甥と過ごした、やさしい時間の記憶
明日を待つ小さな背中──甥と過ごした、やさしい時間の記憶
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