あの頃、私は小学四年生だった。
夏の終わり、夕立ちの後の教室には、まだ雨の匂いがほのかに漂っていた。
鉄製の窓枠が湿気で冷たく曇り、蛍光灯の光が床に鈍く反射している。
休み時間になると、教室のざわめきがいつもより高く、空気が微かにざらついて感じられた。
その異様さの中心にいたのが、Gだった。
Gは、髪を肩まで伸ばし、どこか遠くを見るような澄んだ黒い瞳を持つ女の子だった。
普段は目立たない彼女が、ある日突然「自分には霊能力がある」と言い出した。
彼女の口調はいたって静かで、声も小さいのに、なぜか皆の耳にはっきり届いた。
教室の空気が一瞬で変わるのがわかった。
窓の外ではセミが鳴いているのに、教室の中だけ時間が止まったようだった。
Gの周囲には、好奇心に駆られたクラスメイトたちが吸い寄せられるように集まった。
彼女はひとりひとりの手を取り、その手の甲に指でゆっくりと図形をなぞった。
子供たちの目は、Gの指の動きに釘付けだった。
私は順番を待ちながら、手のひらがじっとりと汗ばむのを感じていた。
ついに自分の番が来る。
Gが私の手を取ると、その手はひんやりとしていて、細い指先が震えるほど繊細に感じられた。
彼女は私の手の甲に、ゆっくりと十字架の形を描いた。
その瞬間、全身にぞくりとした感覚が走った。
自分が「選ばれた」ような、高揚と不安が混じった複雑な思いだった。
クラスの霊能力ごっこは日に日に熱を帯びていった。
Gは「霊界に行く方法を見つけた」と宣言し、ある日の休み時間、教室の机にみんなうつ伏せになった。
机の木目の冷たさと、ほのかに漂うチョークの粉の匂い。
子供たちの息づかいだけが静かに響き、ガラス窓の外の光が、ゆらゆらと床に模様を描いていた。
私は目を閉じて「霊界に行く」準備をしたけれど、何も感じられなかった。
周りの子たちは、目を開けると興奮気味に「川が見えた」とか「おじいちゃんに会えた」と口々に言い合っていた。
その輪の外に取り残されるような焦りと、どこか冷めた思いが私の中でせめぎあった。
だが、子供たちの想像力と集団心理は止まらなかった。
Gはますます「教祖様」のような存在になり、みんなが彼女の言葉を待つようになった。
Gの表情は日に日に硬くなり、目の奥に何か影が差していくのを私は感じていた。
ある日、Gは突然「霊界から戻れなくなった」と机の上で動かなくなった。
誰も声をかけられず、教室には異様な沈黙が広がった。
窓の外では曇天が広がり、遠く雷鳴が響いた。
担任の先生が慌ててGを保健室に運んでいったとき、私は胸が締め付けられるような不安に駆られた。
翌日、Gは何事もなかったかのように登校してきた。
その表情はどこか遠くを見ているようで、誰も彼女に近づこうとはしなかった。
先生は「危険な遊びはやめましょう」とだけ言い、それ以来、霊界ごっこは学校で禁止された。
教室の空気は急速に冷え、子供たちの間にも奇妙な距離感が生まれた。
そんなある日、校内に重苦しい噂が流れた。
Gの母親が、近所のため池で亡くなったという。
事故死とされていたが、その池は膝ほどの深さしかなく、子供がザリガニを獲る程度の場所だった。
あまりにも不自然な出来事に、私たちの間にも言葉にできない不安が広がった。
母親の死後、Gは以前よりも口数が少なくなり、休み時間も机にうつ伏せてじっと動かなくなった。
その背中には、言葉にできない哀しみと孤独が貼り付いているようだった。
クラスメイトたちは、彼女からそっと距離を取るようになった。
Gの周囲だけ、空気が沈黙で満たされていた。
季節が巡り、小学五年生に進級した。
教室は新しい配席になったが、私はまたGと同じクラスになった。
春のある昼下がり。
窓の外で桜の花びらが舞う中、Gがふいに私の机に近づいてきた。
彼女の声はかすかに震え、「お母さんに、会いたい」と呟いた。
私は戸惑いながらも、Gの瞳の奥に消せない悲しみを見た。
「霊界からお母さんを呼び出す方法がある。
一緒にやってほしい」と彼女は続けた。
私は、Gの顔に浮かぶ必死さと寂しげな微笑みに逆らえず、思わず「いいよ」と答えていた。
Gの指示で、女の子をもう一人、男の子三人を誘った。
その人選にもGなりの思惑があったのかもしれない。
日曜日の朝、私たち六人は町外れにある○○山の登山口に集まった。
曇った空、湿気を含んだ空気。
森の中は鳥のさえずりや葉擦れの音が遠くから響き、足元の土はしっとりと重かった。
Gが案内する獣道は、苔むした岩や倒木を縫うように続き、私たちは息を殺して歩いた。
途中、Gは何度も振り返り、私たちの顔色を確かめていた。
心臓が早鐘を打ち、喉が渇く。
空気は次第に冷たくなり、森の奥に進むほどに光が薄れていった。
やがて、森が開けた場所にたどり着いた。
そこには、まるで山の中にぽっかりと口を開けたような洞穴があった。
洞穴の周囲には、苔と蔦がびっしり絡みつき、口の中からは冷たい空気と湿った土の匂いが漂ってきた。
Gは黙って、紙で作った小さな人形を一人ずつに手渡した。
その紙は灰色がかっていて、どこか人肌とは違う冷たさが指先に伝わった。
「ここに名前を書いて」とGは言い、私たちは無言でそれぞれの名前を書いた。
鉛筆の芯が紙を擦る音だけが、洞穴の静寂に響いた。
Gの合図で、私たちは洞穴の中に入り、円を描いて座った。
頭上からぼたぼたと水滴が落ち、ろうそくが六本、淡い光を放っていた。
Gの声が静かに響く。
「お母さん、来てください」——その瞬間、洞穴の奥からひやりとした風が流れ込み、ろうそくの炎がわずかに揺れた。
私は手をつないでいたGの手が、氷のように冷たいことに気がついた。
次の瞬間、その手がぐっと私の手を強く握った。
全身の血が逆流するような衝撃。
思わず手を振りほどいてしまった。
その刹那、洞穴の中で突風が起こり、六本のろうそくの火が一斉に吹き消された。
真っ暗闇と土の匂い、慌てふためく子供たちの叫び声。
私は、何かが洞穴の奥で蠢いているような気配に背筋が凍りつき、逃げ出すように外へ飛び出した。
外に出ると、肌寒い朝の空気が肌を刺した。
顔を見合わせると、Gだけがいなかった。
誰も動こうとせず、しばし場の空気が重く沈んだ。
やがて、男子三人が意を決して洞穴に戻ったが、「いなかった」と言うだけだった。
不安と興奮、そしてどこか安堵したような空気の中で、私たちは「Gのいたずらだ」と自分たちに言い聞かせて解散した。
だが翌日、担任の先生が蒼白な顔で「Gが家に帰っていない」と告げた。
私たちは昨日の出来事を話し、現場に戻った。
だが、あの洞穴はどこにもなかった。
何度もあたりを探したが、そこにはただ湿った土と苔の匂い、風に揺れる草むらが広がるだけだった。
警察や大人たちも加わり、Gを最後に見たその場所は大捜索となった。
しかし、Gは二度と見つからなかった。
時が経ち、私の中であの日の土の冷たさ、Gの手の氷のような感触、消えた洞穴の闇が、今も記憶の奥に沈殿している。
もし、あのとき私がGの手を離さなかったら——私もまた、あの闇の奥へと連れていかれていたのだろうか。
未だに答えのない問いが、雨上がりの教室の匂いとともに、私の心に静かに残り続けている。
不思議な話:十字架の印と消えた少女——小学四年、教室に現れた「霊界ブーム」の真相
十字架の印と消えた少女——小学四年、教室に現れた「霊界ブーム」の真相
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