怖い話:赤いマニキュアの記憶―仙台の夜、安ホテルの小さな部屋で遭遇した“誰でもない”存在

赤いマニキュアの記憶―仙台の夜、安ホテルの小さな部屋で遭遇した“誰でもない”存在

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仙台の街に薄暗い夜が降りた。
仕事仲間とともに投宿したのは、駅前の安いビジネスホテルだった。
窓の外には、青白い街灯が照らす濡れたアスファルト。
六月特有の湿気が、空気に鈍い重さを与えていた。
ロビーを抜けて割り当てられた部屋に入ると、冷たい蛍光灯が天井で滲む。
狭い室内はタバコの古い残り香と、微かに漂う消毒液の匂いに満たされている。

皆は仕事終わりの安堵感と疲労を持ち寄り、缶ビールやコンビニ惣菜をテーブルに並べていた。
乾杯の声、わずかな笑い、時折響く誰かのため息。
その全てが、妙に遠く感じられた。
部屋の外からは断続的に廊下を歩く足音や、隣室の微かな話し声が漏れ聞こえてくる。

不意に、室内の電話がけたたましく鳴った。
安ホテル特有の、どこかこもった金属音だ。
仲間の一人が受話器を取ると、すぐこちらに顔を向けて「君にだって」と告げた。
受け取ると、受話器の向こうから女性の声がした。
「神藤と申します」―その名前に、心当たりはなかった。
声は低く、どこか感情の輪郭がぼやけている。
まるで遠い地の底から響いてくるような不自然な響き。
どこか懐かしくもあり、同時に名状しがたい不快感が胸の奥をざわつかせる。

「フロントで話がある」とだけ伝えられ、電話は唐突に切れた。

誰もが怪訝な顔をしている。
自分も、その名前に心当たりがないことを改めて確信し、妙な胸騒ぎを覚えながら廊下に出た。
エレベーターの前は薄暗く、壁のシミやカーペットの毛羽立ちが、どこか時代の古さを物語っている。
ボタンを押す指先がわずかに震えているのを自覚する。

エレベーターの扉が、低くうなるような音とともに開く。
ひんやりとした空気が内部から押し寄せる。
乗り込んだ瞬間、背後に何かの気配を感じる。
視界の端、エレベーターの鏡には誰も映らないが、背中に冷たい視線が突き刺さるようだ。
呼吸が浅くなり、耳鳴りのように心臓の鼓動が響く。

1階に着いた。
扉が滑らかに開き、振り返るとそこで異様な光景を目撃した。

エレベーターのドアの隙間に、白磁のような腕が吸い込まれていくのが見えた。
指先には、鮮烈な赤いマニキュアが塗られている。
その赤は、ホテルの色褪せた世界の中で異様なほど艶やかだった。
爪がドアの縁をなぞるように動き、消えていく。
人間の腕とは思えない滑らかな動き。
鳥肌が腕を走り抜け、全身の筋肉が一瞬で強張った。

「……あれは、人の手じゃない」
その思いが頭を支配し、冷や汗が背中を濡らす。
呼吸がしづらく、喉がひどく渇く。
フロントへと歩く足取りは重く、床のカーペットの感触すら、どこか粘ついているように感じられた。

カウンターの向こう、フロント係の若い男性もどこか落ち着かない様子でこちらを見た。
彼もまた、何かに怯えたような目をしている。
事情を尋ねると、彼は「確かに電話を受けた」と口にしたが、内容についてはまるで記憶がないようだ。
「申し訳ありません」と繰り返す声は、かすかに震えていた。

フロントの背後の壁には、古びた観光地のポスターが色褪せて貼られている。
その色彩さえも、今はどこか不吉な気配に満ちているように思えた。
自分自身の汗のにおい、緊張で乾いた口内の感覚がやけにリアルだ。

「気にしないでください」と宥め、部屋へと戻ることにした。

廊下に戻ると、明かりの下でもどこか影が深く、壁紙の細かな模様さえも無数の目のように見えてくる。
部屋に戻ると、仲間たちはすでに眠っていた。
誰かの寝息が、静かな波のように部屋を包む。
その平穏が逆に、自分の中の不安を際立たせる。

なかなか寝付けず、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
缶の冷たさが手のひらにしみる。
喉を潤す炭酸の刺激が、意識をわずかに現実に引き戻す。

そのとき、不意にドアがノックされた。
音は軽く、だが異様に規則正しかった。

チェーンロックをかけたまま、そろりとドアを開ける。
廊下には誰もいない。
ただ空気が少し揺れるような気がした。
扉の外からは、ホテル特有の古びたカーペットのにおいと、夜の湿った空気が入り込んでくる。

椅子に戻り、窓の外をぼんやりと眺める。
夜の闇を背景に、何か大きなものがふわりと舞い落ちるような影を見た気がした。
自分が酔っているのか、それとも夢を見ているのか、現実感覚が揺らぐ。

念のため窓を開けて下を覗く。
外の空気は生ぬるく、街灯に照らされた地面には何も異変は見当たらない。

再びドアがノックされる。
今度は、すぐに開けず、のぞき窓から外を覗いた。
やはり、誰もいない。

心拍が早まり、手のひらに汗が滲む。
そのとき、ふと足元に視線を落とした。

ドアと床のわずかな隙間から、赤いマニキュアを塗った指が、ゆっくりと床を引っかくように動いていた。
硬い爪がカーペットと擦れ、異様なほど乾いた「ガリガリ」という音が部屋に響き渡る。
その音は、鼓膜をじわじわと締め付け、全身の神経を焼くような感覚をもたらした。

背筋が凍りつき、思わず後ずさる。
足がもつれ、背中から床へと倒れ込む。
視界が大きく揺れ、天井の蛍光灯がぐるぐると回る。
そのまま、意識は暗闇に沈んでいった。

翌朝、外から異様な騒ぎが聞こえてきた。

廊下を抜けてロビーへ向かい、さらに外へ出ると、すでに人だかりができていた。
ホテルの正面玄関前、地面にシミのような黒い影が広がっている。
誰かが泣き叫び、誰かが嗚咽している。
まだ警察は到着しておらず、現場には混乱と恐怖、好奇の視線が渦巻いていた。

遠巻きにその光景を見ながら、自分の足がふらつくのを感じる。
人垣の奥、地面には女性の遺体が横たわっていた。
その姿は、直視することさえためらうほど、歪んでいた。
顔は見えなかったが、その手が目に留まった。

――右手の指先には、鮮烈な赤いマニキュアが塗られていた。

その色は、昨夜見たあの指の赤と、まったく同じだった。
偶然であるはずがなかった。

背筋に冷たいものが走る。
周囲のざわめきや泣き声が遠ざかり、世界が一瞬静止したように感じられる。

後日、あの女性の右手だけがどうしても見つからなかった、と聞いた。

あの夜、エレベーターのドアや部屋の隙間に現れた赤い爪の“手”。
そして床を引っかく音。

それらすべてが、現実だったのだと、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
読了
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