怖い話:赤い爪の夜、仙台にて――ある安宿の幻影

赤い爪の夜、仙台にて――ある安宿の幻影

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 夜の仙台は、しんしんとした冷たさを湛えていた。
雨上がりの舗道には街灯の光が滲み、どこか遠くで列車の警笛が、寂しげに夜を裂いている。

 仕事の打ち上げで泊まることになった安ホテル。
その一室、安い蛍光灯の下、私は同僚たちとビール缶を手に、ありきたりな話題で笑いあっていた。
どこか浮ついた、しかし妙に現実離れした夜。

 その最中だった。
不意に、部屋の電話が甲高く鳴った。

「もしもし……あの、神藤様という女性からお電話です」
 フロント係のか細い声。
神藤――聞き覚えのない名前だ。
胸の奥でかすかな不安が芽を出す。



 一人、廊下を抜けてエレベーターに乗り込む。
蛍光灯の白い光と、閉じていく扉。

 その瞬間、背中の皮膚が粟立った。
何かが、私の後ろにいる。
そんな感覚。
心臓が、わずかに脈打ちを早める。

 震える指先で階数ボタンを押し、息を殺して扉が開くのを待つ。

 降り際、私は反射的に振り返った。

 エレベーターのドアが閉まりかける隙間、そこに白い腕が吸い込まれていくのを見た。
赤いマニキュアの爪が、月夜の血のように鮮やかだった。

 あれは、人の手じゃない――。

 冷や汗が首筋を這う。
私は足早にフロントへ向かった。



 フロントの青年も、どこか戸惑った顔をしている。

「電話は……確かに受けたのですが、内容が、どうしても思い出せなくて……」
 彼は私の様子を見て、何度も謝罪した。
私はそれ以上追及する気力もなく、曖昧に頷いて部屋へ戻った。

 扉を開けると、同僚たちはすでに深い眠りの底だった。
寝息だけが、かすかな波のように部屋を満たしている。

 私は眠れず、冷蔵庫からビールを取り出す。
苦い泡が喉を滑る。
酔いと共に、得体のしれぬ不安が体の隅々に漂う。



 コン、コン。

 静寂を裂くノックの音。

 私はチェーンロックをかけたまま、そっとドアを開けた。
廊下には誰もいない。
ただ薄暗い灯りと、遠くの自販機の明かりが、虚ろに伸びている。

 椅子に戻り、窓の外を眺める。
夜の闇に溶けていく街。
そのとき、視界の端で、何か大きなものがすうっと落ちていく気がした。

 錯覚だろうか、酔いのせいか。
私は窓を開け、下を覗き込んだ。

 しかし、地上には何もない。
冷たい夜風が頬を撫で、現実感だけが私を引き戻す。

 再び、ドアをノックする音。

 今度は開けずに、のぞき窓から外を覗いた。

 やはり、誰もいない。

 ――そのときだった。

 足元、ドアと床の隙間から、赤いマニキュアの指がじわり、と床を引っかくように伸びてきていた。

 ガリガリ、ガリガリ。

 音が骨の奥まで響く。
私は無意識に後ずさり、椅子の脚がカーペットを滑る。

 次の瞬間、全身が崩れるように床に倒れ、意識が暗闇へと沈んでいった。



 朝。

 カーテンの隙間から、薄い光が忍び込む。
ホテルの一階は異様なざわめきに包まれていた。

 「また飛び降りか」「女性だってよ」
 小声が耳をかすめる。
私は、夢の続きの中にいるような感覚で、フロントの騒然とした空気を眺めていた。

 現場にはまだ警察も来ていない。
地面の上には、見るに堪えない形で女性が横たわっている。
その姿を遠巻きに、誰もが息を詰めている。

 私は無意識に、彼女の指に目をやった。

 指先には、赤いマニキュア。

 偶然ではなかった。

 後になって、彼女の右手がどうしても見つからなかったと、誰かが囁いた。

 朝靄が、街を薄絹のように包み込んでいく。

 あの夜の冷たい感触だけが、いつまでも私の中に残っていた。
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