Ⅰ
夜の仙台は、しんしんとした冷たさを湛えていた。
雨上がりの舗道には街灯の光が滲み、どこか遠くで列車の警笛が、寂しげに夜を裂いている。
仕事の打ち上げで泊まることになった安ホテル。
その一室、安い蛍光灯の下、私は同僚たちとビール缶を手に、ありきたりな話題で笑いあっていた。
どこか浮ついた、しかし妙に現実離れした夜。
その最中だった。
不意に、部屋の電話が甲高く鳴った。
「もしもし……あの、神藤様という女性からお電話です」
フロント係のか細い声。
神藤――聞き覚えのない名前だ。
胸の奥でかすかな不安が芽を出す。
Ⅱ
一人、廊下を抜けてエレベーターに乗り込む。
蛍光灯の白い光と、閉じていく扉。
その瞬間、背中の皮膚が粟立った。
何かが、私の後ろにいる。
そんな感覚。
心臓が、わずかに脈打ちを早める。
震える指先で階数ボタンを押し、息を殺して扉が開くのを待つ。
降り際、私は反射的に振り返った。
エレベーターのドアが閉まりかける隙間、そこに白い腕が吸い込まれていくのを見た。
赤いマニキュアの爪が、月夜の血のように鮮やかだった。
あれは、人の手じゃない――。
冷や汗が首筋を這う。
私は足早にフロントへ向かった。
Ⅲ
フロントの青年も、どこか戸惑った顔をしている。
「電話は……確かに受けたのですが、内容が、どうしても思い出せなくて……」
彼は私の様子を見て、何度も謝罪した。
私はそれ以上追及する気力もなく、曖昧に頷いて部屋へ戻った。
扉を開けると、同僚たちはすでに深い眠りの底だった。
寝息だけが、かすかな波のように部屋を満たしている。
私は眠れず、冷蔵庫からビールを取り出す。
苦い泡が喉を滑る。
酔いと共に、得体のしれぬ不安が体の隅々に漂う。
Ⅳ
コン、コン。
静寂を裂くノックの音。
私はチェーンロックをかけたまま、そっとドアを開けた。
廊下には誰もいない。
ただ薄暗い灯りと、遠くの自販機の明かりが、虚ろに伸びている。
椅子に戻り、窓の外を眺める。
夜の闇に溶けていく街。
そのとき、視界の端で、何か大きなものがすうっと落ちていく気がした。
錯覚だろうか、酔いのせいか。
私は窓を開け、下を覗き込んだ。
しかし、地上には何もない。
冷たい夜風が頬を撫で、現実感だけが私を引き戻す。
再び、ドアをノックする音。
今度は開けずに、のぞき窓から外を覗いた。
やはり、誰もいない。
――そのときだった。
足元、ドアと床の隙間から、赤いマニキュアの指がじわり、と床を引っかくように伸びてきていた。
ガリガリ、ガリガリ。
音が骨の奥まで響く。
私は無意識に後ずさり、椅子の脚がカーペットを滑る。
次の瞬間、全身が崩れるように床に倒れ、意識が暗闇へと沈んでいった。
Ⅴ
朝。
カーテンの隙間から、薄い光が忍び込む。
ホテルの一階は異様なざわめきに包まれていた。
「また飛び降りか」「女性だってよ」
小声が耳をかすめる。
私は、夢の続きの中にいるような感覚で、フロントの騒然とした空気を眺めていた。
現場にはまだ警察も来ていない。
地面の上には、見るに堪えない形で女性が横たわっている。
その姿を遠巻きに、誰もが息を詰めている。
私は無意識に、彼女の指に目をやった。
指先には、赤いマニキュア。
偶然ではなかった。
後になって、彼女の右手がどうしても見つからなかったと、誰かが囁いた。
朝靄が、街を薄絹のように包み込んでいく。
あの夜の冷たい感触だけが、いつまでも私の中に残っていた。
怖い話:赤い爪の夜、仙台にて――ある安宿の幻影
赤い爪の夜、仙台にて――ある安宿の幻影
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