感動する話:「二人の母とおにぎりの記憶――喪失と再生を巡る、家族の22年」

「二人の母とおにぎりの記憶――喪失と再生を巡る、家族の22年」

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記憶の底に沈んだ母の面影が、時折ふいに、色彩や匂いとなって浮かび上がることがある。
俺がまだ幼かったあの頃、家の中の空気にはいつもどこか湿った静けさが漂っていた。
母が癌で亡くなったのは、俺が五歳になった春のことで、家の窓越しに射し込む光さえ、どこか冷たく感じられた。
その日から、家には三人分の食器が並ぶようになった。
父と、二歳年上の姉と、そして俺。
けれど、いつまでも残る空席の重さは、幼い俺の胸にじわじわと広がっていった。

母がいなくなってからの二年間、家は言葉数が減り、空間の隅々まで沈黙が染み込んでいた。
父は早朝の光の中で無言のまま出勤し、姉は俺よりも早く大人びて、母の代わりに小さな世話を焼いてくれた。
食卓には母がよく使っていた花柄の皿がまだ残されていて、そこだけ別の時間が流れているような気がした。
夜になると、母のいない寝室の扉の隙間から、ほのかな石鹸の香りが漏れてくるのが、妙に切なかった。

あれは、小学一年生のある日曜日。
空は雲ひとつない青で、窓から差し込む光が床に四角い模様を描いていた。
朝食の後、父がふいに俺と姉をリビングに呼んだ。
父の声は普段よりも少しだけ張りつめ、けれどどこか優しさを帯びていた。
「今から二人に会って欲しい人がいるんだ」と、父は静かに言った。
その瞬間、何かが始まる予感が、胸の奥で小さく鳴った。

玄関のチャイムが鳴り、父が連れてきたのは、父より少し若く見える女性だった。
彼女の髪は栗色で、目元に柔らかな笑みを浮かべていた。
白いブラウスに淡いベージュのスカート。
春の光を受けて、彼女の姿はやけに明るく見えた。
俺はその時、子供ながらに直感した。
きっと父はこの人と再婚するつもりなんだ――その考えが、胸の奥を冷たく撫でていった。

姉は好奇心に満ちた瞳でその女性を見上げ、すぐに緊張をほぐして楽しそうに話し始めた。
時折、明るい笑い声がリビングの壁に反響した。
けれど俺は、ソファの端で膝を抱え、声をかけられてもうまく返せなかった。
女性の優しい声や、かすかに香る香水の匂いが、どこか遠い世界のもののように感じられた。
俺の体はぎこちなく固まり、手のひらはじんわり汗ばみ、心は警戒心と戸惑いでいっぱいだった。

その日、女性が帰った後の夕食。
食卓にはカレーの香りが漂っていたが、味がほとんど分からなかった。
父が、おずおずとした口調で言った。
「父さん、あの人と結婚してもいいかな?」 その時、姉の頬は上気し、瞳はきらきらと輝いていた。
俺は、頭の奥がじんわりと痛んだ。
心のどこかが「嫌だ」と叫んでいたけれど、姉の幸せそうな顔と、父の静かな期待の眼差しを前に、言葉が喉に詰まってしまった。
無理やり笑顔を作ってうなずいた俺の唇は、乾いてひび割れていた。

こうして、新しい「四人家族」が始まった。
でもそれは、かつての家族がそのまま戻ってきたわけじゃなかった。
俺は新しいお母さんと呼ぶべき女性に、どうしても心を開けないまま日々が過ぎていった。
彼女の優しさは本物だったけれど、心のどこかで「この人は本当の母じゃない」と自分を強く守ろうとしていた。
声をかけられるたび、体がびくりと反応した。
夜、寝室のドア越しに聞こえてくる母の足音も、どこか他人のもののようで、俺の心は凍てついたままだった。

そんなある日、初夏の気配が漂い始めた休日の前夜。
夕食後の団欒の時間、父がいつもの静かな声で「明日はみんなで動物園に行こう」と言った。
俺は一瞬、耳を疑った。
動物園なんて、母が元気な頃に一度だけ行ったきりだったから、心の奥がざわめくほど嬉しかった。
胸が高鳴り、前夜はなかなか寝つけなかった。

翌朝。
いつもより早く目が覚め、カーテンの隙間から射し込む朝日が部屋の中を黄金色に染めていた。
空気はわずかに冷たく、けれど期待で胸が膨らんでいた。
リビングに行くと、父が薬箱をあさっていた。
姉が夜中に熱を出したという。
父の眉間には深い皺が寄り、姉の寝室からはかすかな咳が聞こえてきた。
しばらく迷った末、父は「今日は家に残って姉ちゃんの看病をする」と言い、俺と新しいお母さんの二人だけで動物園へ行くことになった。

外に出ると、初夏の朝の風は肌を心地よく撫で、アスファルトの匂いがほんの少し立ち上っていた。
車の中は気まずい沈黙に包まれていた。
お母さんが時折「楽しみだね」と声をかけてくれるけれど、俺は小さくうなずくだけだった。
車内に流れる微かなラジオの音――DJの明るい声すら、どこか遠くに聞こえた。

動物園の入り口に着くと、日差しはすっかり強くなり、アスファルトの上に樹木の影が斑に落ちていた。
チケット売り場の前には、家族連れやカップルが楽しそうに並んでいる。
俺は人混みのざわめきや、動物の匂い、遠くで聞こえる子供たちのはしゃぎ声すべてが、自分と切り離された別世界の音に思えて仕方がなかった。

園内を歩く俺とお母さん。
二人の間には、空気の重さがはっきりと感じられた。
お母さんは俺に話しかけようとするけれど、俺はうまく返せず、靴音だけがコツコツと園路に響いた。
空には雲が流れ、時折風がふわりと頬を撫でた。
動物たちの鳴き声や、餌の匂い、湿った草の匂いが混じり合い、五感をくすぐった。
けれど、俺の心は相変わらず固く閉ざされたままだった。

昼になり、静かなベンチに座って、お母さんが作ってきた弁当を広げた。
弁当箱を開けると、白いご飯のおにぎりや卵焼き、色鮮やかなミニトマトがきれいに並んでいた。
お母さんは「たくさん食べてね」と微笑みながら、俺の前におにぎりを差し出した。
その瞬間、ふいに手が震えた。
おにぎりを一口かじったとき、柔らかな海苔の感触、ほどよい塩味、ご飯の温もりが広がり――俺の記憶の奥底から、もう一人の母の姿が鮮やかによみがえった。

あの日、元気だった母と家族で行ったピクニック。
母が作ってくれたおにぎりは、少し水分を吸い込んだ海苔がふわりと口の中でほどけ、ほんのりした塩味が優しく広がった。
笑い声、草の匂い、母の温かい手、青空の下で食べたおにぎりの味――それらが一気に押し寄せ、心の奥の堰が切れたように、涙が次々とこぼれ落ちた。

お母さんは驚き、戸惑った表情で俺の顔を覗きこんだ。
「どうしたの?」と優しく声をかけてくれたが、涙は止まらない。
自分でも理由が分からず、けれど寂しさと懐かしさ、そして何か温かいものが胸に広がっていった。
「泣いちゃだめだ」と思うほど、涙はますます溢れた。
その時、初めて気づいたのだ。
この人も、母なんだ――俺を抱きしめてくれる、もう一人の母なんだ、と。

それから、動物園を歩きながら、俺は初めてお母さんにいろいろな話をした。
好きな動物のこと、小学校の友だちのこと、昔の母の思い出も。
お母さんは一つ一つ丁寧に耳を傾けてくれて、時には優しく微笑み、時には一緒に笑ってくれた。
心の中の凍っていた部分が、少しずつ溶けていくのを感じた。
空はますます青く澄み、午後の光の中で動物たちも生き生きと動き回っていた。
俺は、今まで味わったことのない安心感に包まれていた。

そして――あれから二十二年。
月日は容赦なく流れ、その間に俺は大人になり、それぞれの人生を歩んだ。
今年の二月、あの時のお母さんも、病気で静かに息を引き取った。
母を見送った冬の朝、外の空気は刺すように冷たかったが、心の奥には不思議な温もりが残っていた。
あの日、動物園のベンチで食べたおにぎりの味は、今もはっきりと舌に残っている。

二人の母がくれた優しさと強さが、今も俺の中で静かに鼓動を打っている。
悲しみも、喜びも、全てが家族の記憶として重なり合い、今日も俺は、彼女たちに守られながら、前を向いて生きている。
読了
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