感動する話:ふたりの母の味――記憶の庭に咲くおにぎりの白い花

ふたりの母の味――記憶の庭に咲くおにぎりの白い花

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母の不在は、静かな雨のように――日々の暮らしを濡らしていた。

 僕が五歳のとき、母は癌という名の闇に呑まれてしまった。
葬式の日、空は曇天で、遠くで犬が悲しげに吠えていた。
残された家には、父と、二つ年上の姉と、そして小さな僕だけがぽつねんと取り残された。
母のぬくもりが抜け落ちた家は、冬の朝のようにひんやりとしていた。

 その冬が二年続いた。
父は無口になり、姉はいつも窓の外を眺めていた。
僕は、母という言葉を口に出すことさえできなかった。

    *

 小学一年の春、日曜の朝だった。

 東の空が白み始める頃、父がリビングに僕と姉を呼んだ。
カーテンの隙間から射し込む光が、埃を金色に染めている。

 「今から、ふたりに会ってほしい人がいるんだ」

 父の声は、ぎこちなく、それでいて何かを決意した人間の響きを帯びていた。

 玄関のチャイムが鳴り、やがて父に続いて見知らぬ女性が現れた。
彼女は父より少し若く見え、優しげな目元に淡い疲れの影があった。
淡いベージュのワンピースの裾が微かに揺れ、初夏の風のような気配をまとっていた。

 僕は子どもなりに、悟った。
父はこの人と新しい家族になろうとしている、と。

 姉は驚くほど自然にその人と打ち解け、屈託のない笑顔で会話を弾ませていた。
けれど僕は、人見知りの壁の向こうから、ただぼんやりと二人の様子を眺めていることしかできなかった。
心の中に、見えない柵があった。

 夕暮れ、父が夕食の席で言った。

 「父さん、……あの人と結婚してもいいかな?」

 箸を持つ手がわずかに震えた。
姉は無邪気に頷き、僕もまた、言葉を失ったまま、父の幸福を壊さぬようにと、ぎこちなく微笑んだ。

    *

 それから、家族は四人になった。
いや、四人家族に「戻った」のかもしれない。

 けれど、僕の心は、まだ三人のまま、どこか遠くに取り残されていた。
新しい母は、僕に優しく声をかけてくれたが、その声はどこか他人行儀に聞こえ、僕の心の扉を開く鍵にはならなかった。

 季節は巡り、ある休日の前夜――
 父が朗らかな声で言った。

 「明日はみんなで、動物園に行こう」

 動物園――その響きに、僕の胸は小さく高鳴った。
今までに数えるほどしか行ったことのない場所。
夜更けに布団へもぐりこみ、遠足前の子どものような期待で、なかなか眠れなかった。

 翌朝、朝靄が街を薄絹のように包み込んでいた。
僕はいつもより早く目覚め、リビングへ駆けていった。

 だがそこには、父が薬箱を探す姿があった。

 「お姉ちゃん、熱があるみたいだ」

 父は心配そうに額へ手を当て、結局、姉の看病のため家に残ることになった。

 こうして、動物園へは僕と新しい母――ふたりだけで行くことになった。

    *

 電車に揺られ、動物園の門をくぐる。
春の光がまぶしく、子どもたちの歓声が風に乗って響く。
けれど、ふたりの間に流れる空気は、どこかぎこちなく、言葉も少なかった。

 ライオンの檻の前で、母が「怖くない?」と微笑んだ。
僕はうなずくだけだった。

 ペンギンの水槽で、母の指先が冷たいガラスに触れた。
僕もそっと、隣で手を伸ばしてみた。
ガラスは、僕の心の中の壁のようだった。

 正午、静かなベンチに座り、母は手作りのお弁当箱を開いた。
春の日差しが木漏れ日となり、斑模様を母の肩に落としている。

 白いおにぎり。
母は「好きなだけ食べてね」と差し出してくれた。
僕はひとつ手に取り、口へ運ぶ。

 その瞬間――
 記憶の底から、もう一人の母の姿が浮かび上がった。

 かつての春の日、家族四人でピクニックへ行った時のこと。
亡き母が握ってくれた、海苔の水気を吸って柔らかくなったおにぎり。
ほどよい塩味。
指先に残るぬくもり。

 懐かしさが、胸にこみあげる。
知らぬ間に、涙が頬を伝ってこぼれ落ちていた。

 「……どうしたの?」
 母の戸惑う声。
泣いてはいけないと思ったのに、涙は止まらなかった。

 僕の中で、なにかが音を立てて崩れ、そして静かに生まれ変わる気がした。

 「おいしい……」
 それだけ言うと、母はそっと僕の肩に手を置いた。
優しい、春の陽射しのようなぬくもりだった。

 そのとき、初めてこの人を「お母さん」と思えた気がした。

    *

 午後の動物園は、柔らかな光と、動物たちののんびりとした気配で満ちていた。

 僕はこれまで話せなかったいろいろなこと――好きな動物や、学校での出来事、ふしぎに思っていたこと――を母に話した。
母もまた、ゆっくりと耳を傾けてくれた。

 嬉しさと、少しの照れくささ。
その日、僕の世界は、ほんの少し広がった。

    *

 それから二十二年の歳月が流れた。
今年の二月、母は病に倒れ、静かに息を引き取った。

 葬儀の日、雪混じりの雨が降っていた。

 僕は、あの日の動物園で食べたおにぎりの味――ふたりの母が残してくれたやさしさを、今もはっきり憶えている。

 ふたりの母に育まれた僕は、いまも記憶の庭でその白い花を大切に抱きしめながら、生きている。
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