不思議な話:「失われた温もりと幻の背中――冬の台所に立ち昇る妻の記憶」

「失われた温もりと幻の背中――冬の台所に立ち昇る妻の記憶」

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今ならようやく、これも笑い話にできる気がする。
俺の人生のなかでもっとも鮮烈で、同時に不可解な、あの日のことを――亡くなった妻の話を、少しだけ書いてみようと思う。

あの冬、外は曇天で、ふたたび雪が降り出しそうな空だった。
窓の外から射し込む光はどこか青白く、部屋の隅には冬特有の影が滲んでいた。
俺は風邪にやられてベッドに沈み、こもった室内の空気は湿り気を帯びて重苦しく、喉の奥がヒリヒリと痛む。
布団越しに感じる自分の体温は不快なほど熱く、額にはじっとりと汗がにじんでいる。
そんななか、ふと、無性にみかんの缶詰が食べたくなった。
子供じみた衝動だった。
まるで甘さで現実をごまかしたいみたいに――

「みかんの缶詰、食べたいな……」
俺は枕元に腰かけていた妻に、半分冗談、半分本気でつぶやいた。
彼女は小柄で、髪を後ろでまとめている。
いつもの優しい目が、少し呆れたように細められた。

「はいはい、わがままですね」
そう言いながらも、軽やかな足取りで台所へ向かい、財布を手に取る。
その仕草の一つ一つが、いま思えばどこか頼もしく、そして儚かった。

彼女が玄関の戸を開ける音――ガチャリと金属が擦れる短い音が、室内にいちど響いた。
冷たい風がわずかに流れ込み、どこか柑橘のような爽やかな香りすら混じった気がした。

「すぐ戻るからね」
背中越しの声。
その響きはどこか遠く、薄膜を隔てて聞こえたようだった。

俺は再びベッドに沈み、うとうとと浅い眠りに落ちていた。
外の世界は窓を隔てて遠く、ただ時折、どこかから車の走る音が遠ざかっていく。
その単調なノイズに意識が溶ける。

ふいに、窓の外からサイレンの音が割り込んできた。
遠くで救急車が走っている。
高く、鋭い音だったが、当時の俺にはそれが日常の一部のようにしか思えなかった。
ただ「誰か大変な目に遭ったのかな」と、ぼんやり思っただけだ。
自分の鼓動は熱に浮かされて不規則で、ひどく身体が重い。

トイレに行きたくなって、ベッドから這い出る。
足裏がフローリングの冷たさに触れ、鳥肌が立つ。
部屋の空気はしんと静まり返り、時計の秒針の音がやけに大きく響いた。

用を足して、ふと台所の方を見やった。

そこに、妻の背中があった。

彼女はいつものエプロン姿で、台所のシンクに向かっている。
その肩越しからは、微かに髪の香りが漂う気がした。

ただ、妙だった。
玄関が開く音も、戻ってきた気配もなかったはずなのに。

「……いつ帰ってきたの?」
思わず声をかける。
だが、返事はない。
彼女はじっと背中を向けたまま、包丁か何かを扱う音すら聞こえない。
ただ静止している。

「みかん、どこ?」
もう一度、声をかける。
沈黙が空間を満たす。
どこか冷たく、湿度を帯びた空気が広がる。

(今思えば、あの沈黙は異質だった。
だが当時の俺は、彼女が不機嫌なのだろうと勝手に納得してしまった。
熱で頭がぼんやりしていたのもある。


そのまま、足元の重さに負けて再びベッドに戻った。

布団のなかに体を沈めると、遠くでサイレンがまた響いた。
鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。
だが、意識はじきに曖昧になっていった。

――どれくらい時間が経っただろう。

1時間ほどして、不意に携帯が震えた。
手に取ると、妻の携帯からの着信だった。
妙な胸騒ぎがした。

通話ボタンを押すと、電話口から聞き慣れない声が響いた。

「こちら、〇〇病院ですが。
この携帯の持ち主の方が交通事故に遭いまして……現在、意識不明の状態です」
その瞬間、時が止まったように感じた。

頭が混乱する。
目の前の現実と、電話の向こうの情報がどうしても結びつかない。

(妻の携帯が事故現場で拾われて、誰か他の人が巻き込まれたんだろうか?妻なら、さっき台所にいたし……)
だが、病院の人間が告げる服装や特徴は、どう考えても妻そのものだった。

脳裏に、台所に立っていたはずの妻の後ろ姿がフラッシュバックする。

(まさか、あれは……)
背筋が凍りつく感覚。
指先が冷たくなり、心臓が小刻みに震えた。

家中を探し回る。
居間、寝室、風呂場――どこにも彼女はいない。
もう一度台所へ戻る。
そこには、ただ冷たい空気と、彼女が使った形跡のないまな板があるだけだった。

万が一の可能性にすがるように、俺は病院へ向かった。

玄関を開けると、冬の外気が鋭く頬を刺す。
空はますます重く、道路のアスファルトが微かに濡れている。
タクシーの中、窓の外の景色が流れ、行き交う人々がまるで別世界の住人のように見えた。

病院の白い蛍光灯の下で、現実が突きつけられる。

妻は、もう息をしていなかった。

俺が家で妻の背中を見た(と思っていた)あの瞬間――彼女はすでに事故に遭っていた。

あのサイレンの音が、まさに彼女を運ぶ救急車のものだったのだ。

その後、警察がやってきて身元確認だの事情聴取だの、怒涛のように現実が押し寄せる。

熱もぶり返し、俺は結局1日だけ入院する羽目になった。

病室の天井は妙に高く、蛍光灯の光が冷たく目に刺さる。
シーツの感触、消毒液の匂い、遠くのナースステーションの足音――すべてが現実味を失っていた。

嫁の両親が駆けつけてきた。
憔悴した表情で、言葉少なにうなずき合う。
互いの体温を確かめるように、無言で肩を抱き合った。

一通り手続きが済み、俺たちは一緒に家へ戻った。

玄関を開けた瞬間、空気がどこか違うことに気づいた。

家を出る前にはなかったはずの、ほんのりとした生姜とネギの香りが漂っていた。

台所へ行くと、鍋の中に冷めた雑炊があった。

卵とネギ、そしてたっぷりの生姜。

妻がいつも作る、俺のための雑炊。
俺は生姜が苦手なのに、風邪をひくと必ず食べさせられた。
彼女の優しさと、ちょっとした押し付けが混じった味だ。

蓋を取ると、まだわずかに湯気が立ち上る。
それはほとんど幻のように儚い。

前日に家を出たとき、こんなものはなかったはずなのに。

俺は鍋の縁に手を添え、その冷たさと温もりの残滓を確かめる。

不意に、涙が滲んできた。

「……ありがとう」
誰にともなく呟いた。
その声は小さく、鍋の蓋の上で消えていった。

――これが、俺が缶詰みかんを食べられなくなり、代わりに生姜を好きになった理由だ。

今でも、風邪をひくたびに、あの雑炊の香りが蘇る。

その度に、もう一度だけ、あの背中に声をかけたくなる。
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