朝靄が窓辺を淡く染めていた。
冬の名残が部屋の隅に冷たく潜み、熱のこもった身体をさらに重くする。
寝具に沈み込むようにして、僕はただ、静かな時間の流れに身を任せていた。
ふと、喉の奥に奇妙な渇きが生まれる。
子供の頃から好きだった、みかんの缶詰。
風邪で弱った心が、あの甘やかな味わいを求めていた。
「みかんの缶詰、食べたいな……」
呟きは、寝室の淡い光に溶けて消えた。
彼女は笑った。
春の日差しのような、あたたかな笑顔。
僕の我儘をたしなめるように、「しょうがないな」と呟き、コートを羽織り、玄関のドアを静かに閉めた。
それが――あの日の最後の姿だった。
*
遠くでサイレンが鳴っていた。
街を行く救急車の音は、いつも通りの日常の雑音に過ぎなかった。
僕は熱に浮かされるまま、トイレへと身体を引きずる。
すりガラス越しに射し込む午前の光が、ぼんやりとした現実と夢の境界を曖昧にする。
台所に、彼女の背中があった。
なぜか、ただそこに佇んでいる。
帰宅を告げる音も気配もなかったのに。
「いつ帰ってきたの?」
返事はない。
「みかん、どこにある?」
沈黙が部屋に落ちる。
その背中は、どこか遠い場所を見つめているようだった。
僕はただ、彼女の機嫌が悪いのだろうと思い込んだ。
ベッドへ戻り、再び目を閉じる。
だが、心の奥底に、微かな違和感がひっそりと巣食い始めていた。
*
約一時間後、携帯が震える。
画面に浮かんだのは、彼女の名。
安堵と不安が、入り混じる糸のように胸を締め付けた。
「こちらは○○病院です。
この携帯の持ち主の女性が、交通事故で搬送され、現在意識不明です」
声は淡々としていて、現実味がなかった。
何かの間違いだ、と僕は思いたかった。
彼女は今も台所で、無言のまま佇んでいるのだから。
だが、家中を探しても、彼女の気配はどこにもなかった。
説明された服装や特徴が、彼女そのものだった。
もしかしたら――そんな小さな可能性にすがるように、僕は病院へ向かった。
現実は、容赦なく僕を打ちのめした。
彼女はもう、戻らない場所へ行ってしまっていた。
あの時、救急車のサイレンを聞きながら、僕は彼女の幻影を見ていたのだ。
後悔の念が、重たい鎖となって心を縛りつける。
なぜ、あの時、みかんの缶詰などと我儘を言ってしまったのだろう――。
*
警察の事情聴取、身元確認、そして再びぶり返した熱。
病院の無機質な天井を見上げながら、僕はひとり、静かに涙を流した。
夕暮れ。
茜色の空が、すべてを包み込むように沈んでいく。
彼女の両親と共に、一度だけ家へ戻った。
鍋の中に、見覚えのある雑炊が冷えていた。
卵とネギと生姜。
僕の苦手な生姜を、彼女はいつもたっぷり入れた。
「風邪には生姜が一番だよ」と、優しく笑いながら。
前夜にはなかったはずのその雑炊は、今はもういないはずの彼女の、最後の気配だった。
スプーンを手にした時、温かさよりも、喪失の冷たさが胸に染みた。
生姜の香りが鼻腔を満たし、涙がこぼれそうになる。
苦手だったはずのその味が、今はただ、懐かしい。
*
それから僕は、みかんの缶詰を食べることができなくなった。
けれど、生姜の雑炊は――彼女の記憶とともに、いつしか好きになっていた。
あの日、台所に立っていた背中は幻だったのか。
それとも、彼女が最後に残してくれた、ささやかな奇跡だったのだろうか。
夜が訪れ、静寂が部屋を満たす。
生姜の余韻だけが、今も僕の心を温めている。
不思議な話:みかん色の幻影と、生姜の記憶――ある冬の終わりに
みかん色の幻影と、生姜の記憶――ある冬の終わりに
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