その日、曇りがかった午後の薄明かりが事務所の窓ガラス越しにぼんやりと差し込んでいた。
外では遠くで車のエンジン音がかすかに聞こえ、室内には複合機が紙を吐き出す微かな音と、エアコンの低く唸る機械音が響いている。
私は自分のデスクで書類の山と格闘していた。
緊張した空気の中、コーヒーの香りがほのかに漂い、微かに乾燥した空気が肌を刺していた。
そんな日常のリズムが、ふいに崩された。
入口の自動ドアが、普段よりもゆっくりと重たそうに開く音がした。
誰かが入ってきた気配があり、私は一瞬だけ顔を上げた。
そこには、見覚えのない老人が立っていた。
背中は少し丸まり、グレーの古びたコートが肩にずり落ちそうになっている。
彼の白髪は無造作に跳ね、皺の刻まれた顔からは、長い時間を生きてきた人間特有の静かな威圧感が漂っていた。
老人は、まるで何度もここを訪れているかのような自然な足取りで、ゆっくりと奥へ進んできた。
歩くたびに、靴底が床にこすれる乾いた音が響く。
口元はわずかに開き、入れ歯が合わないのか「フガフガ」と湿った音を立てながら、「こんにちは」と低くくぐもった声で挨拶した。
その声には、かすかな震えと、呼吸を整えるような間があった。
私は思わず背筋を伸ばしたが、老人は私には目もくれず、フロア中央の社員のデスクに向かって歩いていく。
彼は何のためらいもなく、年配社員の机の隣の椅子に深く腰を下ろした。
椅子がわずかに軋み、二人の間には短い沈黙が訪れる。
だがすぐに、年配社員が親しげに話しかけ、彼らだけの穏やかな空気が生まれた。
その会話は、周囲の耳には届かないほどの小さな声だったが、時折老人が低く笑う声が漏れ、空間に微かな変化が生まれていた。
他の社員たちも老人の存在に気づいてはいた。
だが、誰もがそれを特に気に留める様子もなく、むしろ意図的に視線を逸らしていた。
キーボードを打つ音が、いつもよりも少しだけ硬質に響く。
私は隣の席のアルバイトの女の子の指先が、緊張でわずかに震えているのに気づいた。
誰もが「知らない人だが、会社の関係者なのだろう」と無言の合意を交わし、平静を装っていた。
私も例外ではなく、「多分会社のOBか何かだろう」と心の中で呟き、再び書類に目を落とした。
だが、心の奥では違和感が膨らんでいくのを止められなかった。
知らない人物が、あまりにも当然のように社内の一員として振る舞っている──その不自然さが、私の胸の奥で小さなざわめきとなって残った。
やがて、老人はアルバイトの女の子の肩にそっと手を置いた。
骨ばった指先が、彼女の肩越しにわずかに震えながら触れる。
その瞬間、彼女がびくりと体をこわばらせるのが見えた。
老人は、唇の端から微かに唾液が漏れるのも意に介さず、「お茶!」と短く、しかし命令口調で言い放った。
その声には、長年の習慣から生まれた圧力があった。
女の子は一瞬戸惑い、目を泳がせたが、やがて小さく頷き、そそくさと給湯室へ向かった。
彼女の後ろ姿には、緊張と戸惑いが色濃く滲んでいた。
時間がゆっくりと流れていった。
場の空気は、微妙に重く、どこか湿ったような圧迫感に包まれていた。
私は指先が冷たくなっていくのを感じつつ、心の中で「一体誰なんだ」と繰り返し問いかけていた。
やがて、数時間後、社内の噂話の中で、あの老人が本社の社長であることが判明した。
私は、信じられない思いでその事実を受け止めた。
支店採用だった私は、それまで社長の顔を一度も見たことがなかったのだ。
目の前にいた、あの見るからに弱々しく、年老いた体を引きずるような老人が、会社の頂点に立つ人物だったとは。
私の中に、驚きと戸惑いが渦を巻いた。
それと同時に、社員たちが社長の登場に対してほとんど関心を示さず、まるで空気のように扱っていたことにも、深い衝撃を受けた。
そこには、長い年月の中で育まれた、ある種の距離感と無関心、そして見えない壁が確かに存在していた。
その日、事務所の空気は、静けさの中に奇妙な余韻を残していた。
老人の残り香のような気配がどこかに漂い、私は今も、あの午後の曇り空と、老人の入れ歯のフガフガという音を、鮮明に思い出すことができるのだ。
仕事・学校の話:午後の事務所に現れた謎の老人──静けさを破る異質な邂逅の記憶
午後の事務所に現れた謎の老人──静けさを破る異質な邂逅の記憶
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