仕事・学校の話:薄曇りの午前、老人が扉を押し開けた日

薄曇りの午前、老人が扉を押し開けた日

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朝の光は、まだ完全には目覚めていなかった。
窓辺に霞のように薄い日差しが降りてきて、事務所の埃を浮かび上がらせていた。
キーボードの打鍵音、プリンターの低い唸り、そして時折誰かが椅子を引く軋み。
その単調なリズムの中に、一つだけ異質な音が混じった。

 
 扉が、軋んだ。

 
 誰とも知れぬ老人が、静かに、しかし迷いなく部屋へと足を踏み入れる。
古びたコートを肩に羽織り、顔には深い皺。
入れ歯が微かに浮き沈みしているのが口元から窺えた。

 
 「こんにちは」
 
 その声は、どこか遠くから届いたようにくぐもっていた。
挨拶の言葉は朝靄の中へ溶けていき、誰もが一瞬だけ顔を上げたが、すぐに自分の世界へと戻っていった。

 
 老人は、当たり前のように、一番手前のデスクの隣に腰を下ろした。
そこにいた年配の社員が、軽く会釈をしながら話しかける。
二人の間に静かな空気が流れ、他の者たちはそれを空気ごと見過ごしていた。

 
 この奇妙な訪問者に、誰も驚くことはなかった。
私もその一人だった。

 
 ――誰だろう。

 
 そんな疑問が心の底で小さな泡のように浮かんだが、「会社のOBか何かだろう」と自分を納得させ、また画面に視線を戻す。
外で通り雨がアスファルトを叩き始めていた。
濡れた土の匂いが窓の隙間から流れ込む。

 
 やがて老人は、隣のアルバイトの女の子の肩を、まるで古い知人にでもするように軽く叩いた。

 
 「お茶!」
 
 短く、しかし不思議な重みのある声だった。
女の子は少しだけ戸惑いを滲ませながらも、やがて立ち上がり、湯沸かし器の方へと歩いて行った。
その後ろ姿を眺めながら、私はどうにも拭えぬ違和感に胸の奥をくすぐられる思いがした。

 
 昼休みが近づく頃、ささやかな噂が廊下を漂いはじめた。

 
 「あの人……本社の社長らしいよ」
 
 私の心の中で、何かが崩れ落ちた。
支店でしか働いたことのない私は、その日、初めて社長の顔を目にしたのだった。

 
 あれほど頼りなげな老人が、組織の頂点にいるなど、誰が想像できただろう。
驚きと、そして何よりも、この部屋に満ちる静かな無関心――社長がそこにいることさえも、誰も特別なこととは思わない、その空気に、私はどこかしら言い知れぬ寂しさを感じていた。

 
 外では雨がやみ、淡い光が再び床を照らしていた。
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