不思議な話:黄昏のドライブインにて、消えた夏の影

黄昏のドライブインにて、消えた夏の影

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あの夏の夜を、私はいまだに夢の底で何度も彷徨っている。
人は皆、現実と幻想の境界をはっきりと区切れると思い込んでいるが、あの日私たち四人が見たものは、現実の皮を剥いだ、その下の世界だったのかもしれない。

 *

 八月のある午後、熱気がアスファルトの上で揺れていた。
私はA、B、C――いつもの気の置けない友人たちと、特にあてもなく集まっていた。
誰ともなく「どこかへ行こう」と言い出し、長野までドライブすることになった。
目的地のない旅は、若さの特権のようなものだ。
窓を開ければ、夏草の匂いと蝉の声が車内へ流れ込んでくる。
私たちは男四人、くだらない冗談と、どこかしら幼い興奮を胸に抱えて、ゆるやかに北へとハンドルを切った。

 夕暮れ、観光地で遅い飯を食い、長野と群馬の県境へと差し掛かった。
空は群青色に沈み、道はほの暗いトンネルのように続いている。
カーナビの示す一本道を頼りに、車は森の奥へと進んでいった。

 「なあ、道がおかしくないか?」運転席のAが、沈黙を破る。
助手席の私は、言われてみて初めて気付いた。
道幅は徐々に狭まり、ガードレールは錆びて赤茶けている。
舗装はひび割れ、雑草がアスファルトを押し上げていた。
車一台すれ違う気配もなく、窓の外はただ闇が積み重なるばかり。
胸の奥に、じわりと不安が滲み始める。

 「一度どこかで止めてルートを確認したほうがいい」Cの声が、車内に重く響いた。
そのとき、前方にぼんやりと明かりが浮かび上がった。
ドライブイン――小さな駐車場に数台の車が停まっている。
それだけで、どこか救われたような気がした。

 車を停めて外に出る。
山の夜気は思いのほか冷たく、古びたドライブインの建物は、時代から取り残されたように静まり返っていた。
店員の気配はなく、並ぶ自動販売機の灯りだけが現世との接点のように思えた。

 AとCはトイレへ、私はBと休憩所へと足を向ける。
休憩所の入口で、私たちは思わず息を呑んだ。
掌よりも大きな蛾が、扉にじっと止まっている。
真夏にしては異様に巨大で、その翅には、人の顔のような模様が浮かんでいた。
Bと私は互いに目を合わせ、無言で中へと入る。

 休憩所の中は薄暗く、テーブルや椅子は埃をかぶり、壁紙は剥げ落ちている。
奥には古びたゲーム機が並び、どれも時代遅れの電子音を漏らしていた。
50代ほどの男が一人、テレビの前で無表情に座っている。
私はどこか現実感のない空間に迷い込んだような気がした。
Bは私の肩を軽く叩き、「あっちに女の子三人組がいるぞ、声かけようぜ!」と、無邪気にはしゃいだ声を上げる。

 たしかに、テーブルを囲んで若い女性が三人――だが、その表情はどこか曇っていた。
不安げに小声で話し合っている様子が、異質な空間の中でより一層際立って見える。

 そのうちの一人が私たちに気付き、ためらいがちに近づいてきた。
Bは期待に満ちた顔を向けていたが、私はなぜか胸騒ぎを覚えていた。

 「あの……ここって、関東方面へ抜ける道で合ってますよね?それと、このドライブイン、変じゃないですか?」

 声は震えていた。
私は自分も同じ違和感を抱いていることを打ち明け、彼女たちのテーブルに腰を下ろした。
Bはからかうように「やるじゃん」と笑ったが、私はその場の空気に笑い返す余裕もなかった。

 話を聞くうち、女の子の一人が奥のテレビの前の男について口を開いた。
「あの人、立ったら三、四メートルはあるんじゃないかな……」私も改めて男の方を見る。
たしかに、テレビやテーブルとの比率が明らかにおかしい。
Bも呟く。
「でかすぎるよな、あれ……」

 さらに、彼女は奥のプリクラのカーテンの下を指差した。
「あそこ、ロングスカートの女の足が見えるんです。
私たちが来てから一度も動かないし……」そして、耳を澄ませるように続けた。
「なんか、変な音しませんか?人が話してるみたいな……」

 私も注意深く耳を澄ました。
休憩所の薄闇で、確かに、ぼそぼそと低く、幾重にも重なる声が聞こえていた。
まるで遠い過去の残響のように。

 そのとき、休憩所と自販機コーナーを隔てるドアが重く開いた。
AとCが戻ってきたのだ。
Cは呆れた顔で「お前ら、何ナンパしてんだよ……」と声をかけたが、すぐに真顔に戻り、「そんなことより来てくれ、変なのがある」と言う。
Aの表情もどこか強張っていた。

 自販機コーナーへ案内されると、Aが指差したのはカップ式の自販機だった。
液晶画面の真ん中に、まぎれもなく生身の口があり、「いらっしゃいませ」と唇が動いている。
Cは呆然とした様子で、「最初、人が入ってるかと思って声をかけたり叩いたりしたけど、何の反応もない」と説明した。

 私は全身を冷たい汗が伝うのを感じた。
何かが、常識という薄い膜を破って侵入してきている。

 そのとき、休憩所の方を見ていた女の子が急に私の肩を揺すった。
「あれ、見て!」――指差す先を見ると、プリクラのカーテンの下にいた女が、こちらに向かって歩き出していた。
しかし、その姿は断じて人間ではなかった。
上半身が消え、下半身から上部が逆さの漏斗のように細く収束し、謎の棒状のものが天井へと伸びている。
それがユラユラと揺れ、確実にこちらへと迫ってくる。

 私たちは、言葉もなくただ本能のままに外へと逃げ出した。
振り返れば、その“もの”は私たちを気にする風もなく、トイレの方へと消えていった。

 *

 「ここを出よう」Aが震える声で言った。
女の子たちも車に戻ろうとしたが、そのとき駐車場の奥、林の闇の中から、いくつもの人影がぞろぞろと降りてくるのが見えた。
更に、林の中から何かが跳ねるように飛び出し、私たちの車の隣に停めてあったトラックへと激突した。

 街灯の下、それは一メートルを超える巨大な蛆だった。
トラックのガラスが割れ、蛆は地面でのたうち、黄色い体液を撒き散らしている。
しかも、同じような蛆が七、八匹、林の中から次々と跳ねて現れ、何匹かは私たちの方へと迫ってきた。

 私は全身が強張り、喉が乾ききっていた。
女の子たちはパニックになり、駐車場の隅にあるプレハブ小屋を指差して「中に隠れよう」と叫んだ。
だが、私は無理矢理彼女たちの腕を掴み、「いいから車に乗れ!」と怒鳴った。
A、B、Cも必死で彼女たちを引き戻し、車に押し込む。
Bが女の子たちの車の運転席へ駆け込み、私たちはドライブインから逃げ出した。

 闇の中、バックミラーの向こうで、ジャンプする蛆の群れが女の子たちの車の後ろを追っていた。
しかし、車のスピードには及ばず、やがてその異形も見えなくなった。

 *

 一時間ほど走り、町の灯りが眼下に広がる頃、Cから「女の子たちがトイレに行きたいと言っている」と電話が入った。
公園のような駐車場に車を停めると、彼女たちは三人連れ立ってトイレへと消えていった。

 ふと彼女たちの車を見ると、ドアが開き、バッグが地面に落ちかかっていた。
私は何となく中へ手を伸ばし、バラまかれた中身を拾い上げた。
その瞬間、Aたちが戻ってきた。
「トイレには誰もいなかった。
すれ違ったのかもしれない」と言う。

 私は不安に駆られ、警察へ通報することを提案した。
やがて警官がやってきたが、女の子たちの車はどこにも見当たらなかった。
カギを握るはずのバッグを屋根の上に置いたまま、私たちは事情を話すしかなかった。

 数日後、あのバッグが十年以上前に失踪届が出ていた短大生のものであると知らされた。
警察の事情聴取で、私たちは事件との無関係を認められたが、「あなたたちが通った道にはドライブインも、あの荒れた道すら存在しない」と言われた。

 だが、警官が見せてくれた失踪した短大生の写真は、あの夜出会った三人組のうちの一人に違いなかった。

 今思えば、彼女たちにはいくつもの不審な点がある。
失踪時の姿そのままで現れ、しかも私たちと同じルートでドライブインに到着したはずなのに、道中で前を走る車のヘッドライトを一度も見なかった。
あの異様な状況で、見ず知らずの男ふたりに何の警戒もなく話しかけてきたこと。
パニックの中、小屋へ立てこもることを主張したこと。
それが本当にただの恐怖からだったのか、今となってはわからない。

 もし、あのとき彼女たちの言葉に従っていたら、私たちはどうなっていただろうか。
彼女たちの姿が、救いの天使だったのか、それとも――。

 夏の夜の闇は、時に人を異界へと誘う。
私は今でも、あの黄昏のドライブインの記憶が、現実だったのか幻想だったのか、確信を持てずにいる。
だが、あの夜、たしかに私は“向こう側”を覗き込んでしまったのだ。

 ――黄昏の闇には、まだ語られぬ物語が潜んでいる。
読了
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