親父の実家は、私の自宅から北西へおよそ二時間弱、県境にほど近い山裾の集落にある。
田んぼと畑が幾重にも波打つその土地は、季節ごとに違う匂いと色を見せる。
夏、稲の青さが濃くなる時期には、土と水が混じり合った独特の芳香が鼻孔を満たし、冬には凍てついた大地と刈り取られた藁の乾いた匂いが、空気に静けさと緊張感をもたらす。
私は、そんな農村の雰囲気が幼い頃から好きだった。
特に高校生になり、待望のバイクを手に入れてからは、自由を手にしたような気分に浸りながら、夏休みや冬休みになると独りで親父の実家まで足を伸ばすようになった。
エンジンの振動が身体に伝わり、ヘルメット越しに感じる風の冷たさや、路面から立ち上る熱気――五感すべてが、都会の自宅とは違う世界へと私を連れ出してくれた。
じいちゃんとばあちゃんは、毎回変わらず温かく迎えてくれた。
台所から漏れ聞こえる味噌汁を煮る音、畳の上を歩く足音、そして二人の柔らかな笑顔。
祖父母の家は、どこか懐かしく、安心できる場所だった。
だが、私が高校三年に上がる直前、春休みの出来事を最後に、あれから十年以上、その家を訪れていない。
行かなくなったのではない。
行けなくなった――その理由を、私は今でも鮮明に覚えている。
その年の春休み、三月も半ばを過ぎたある日だった。
冬の名残が空気に漂い、朝の吐く息はまだ白かった。
天気は雲ひとつなく、空はどこまでも高く澄みわたっていた。
私はバイクで祖父母の家へ向かった。
道中、田畑の間を縫うように走ると、風が頬を切る。
指先は冷えたが、胸の内は期待と小さな冒険心で満ちていた。
祖父母の家の門をくぐると、土間特有の湿っぽい匂いと、どこか懐かしい木の香りが鼻をついた。
広縁に出ると、南向きの障子越しにやわらかな陽が差し込んでいた。
畳の縁が温まっていて、私はしばらくそこで横になり、旅の疲れを癒した。
縁側の外、庭の梅の木には小鳥がさえずり、風に揺れる枝が光と影を畳に落としている。
静かな時間――それが、何か異質なものに裂け目を入れた。
「ぽぽ、ぽぽっぽ、ぽ、ぽっ…」
突然、まるで人が発するような、しかしどこか規則性も意味も掴めない、濁音とも半濁音ともつかない不思議な声が、庭の向こうから聞こえてきた。
その音は、風に乗るには重く、しかし遠くから響いてくるような奇妙な距離感を持っていた。
私は耳をそばだて、思わず身体を固くする。
畳の上で指先に汗がにじみ、心臓が微かに早鐘を打つ。
音の方に目をやると、生垣の上に、影のようなものが見えた。
よく見ると、それは帽子だった。
黒とも白ともつかぬ、時代がかった広いつばの帽子。
生垣の上に置かれているのではなく、その帽子はまるで滑るように横へ移動している。
私は思わず身を起こし、縁側の窓に近寄った。
生垣はおよそ二メートルほどの高さがある。
そこに、帽子の主――白っぽいワンピースをまとった女性が、垣根の切れ目から現れた。
その姿は異様に背が高く、帽子を被った頭は、まるで生垣の上から悠々と覗くようだった。
重力を感じさせない大股の歩みで、彼女は垣根沿いに静かに移動し、やがて視界から消えた。
見えなくなると同時に、あの「ぽぽぽ…」という音も、するりと溶けるように消えた。
私は呆然としながら、脳裏で状況を整理しようとした。
あんなに背の高い女性がいるものか。
もしかしたら厚底のブーツか、背の高い男が女装していたのかもしれない――そんな現実的な解釈で恐怖を和らげようとした。
だが、心の奥底では、何か説明できない不安がじわじわと広がっていた。
やがて居間に戻ると、じいちゃんとばあちゃんが卓袱台を囲んでいた。
湯呑みからは、ほうじ茶の香りが立ち上っている。
私は、先ほどの出来事を軽い冗談のように話した。
「さっき、大きな女を見たよ。
もしかして男が女装してたのかなあ」
二人は最初、「へぇ〜」と興味のなさそうな相槌を打つだけだった。
だが、
「垣根より背が高かった。
帽子を被っていて、『ぽぽぽ』って変な声も出してたし」
と続けた途端、部屋の空気が瞬時に変わった。
じいちゃんとばあちゃんの動きが、まるで時が止まったかのように凍りつく。
じいちゃんはゆっくりと私に顔を向け、その目には、怒りとも恐怖ともつかない鋭い光が宿っていた。
「いつ見た」「どこで見た」「垣根よりどれくらい高かった」――激しい口調で次々と問い詰められ、私は戸惑いながらも答えた。
じいちゃんはそれを聞き終えると、無言で立ち上がり、廊下の電話のところへ向かった。
引き戸が閉じられ、受話器越しに何やら早口で話している。
私はその背中を見つめながら、ばあちゃんの手が膝の上で震えていることに気づいた。
しばらくしてじいちゃんが戻ると、沈んだ声で言った。
「今日は泊まっていけ。
いや、今日は帰すわけにはいかなくなった」
私は、胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。
何か、とんでもなく悪いことをしてしまったのではないか? 必死に記憶を辿るが、思い当たる節はない。
あの女も、こちらから見に行ったわけではなく、向こうから勝手に現れたのだ。
「ばあさん、後は頼む。
俺はKさんを迎えに行ってくる」
そう言い残し、じいちゃんは軽トラックのエンジンを唸らせて出て行った。
ばあちゃんに、恐る恐る尋ねてみた。
「さっきの、何かマズいことなの?」
ばあちゃんは、かすれた声で答えた。
「……八尺様に魅入られてしまったようだよ。
じいちゃんが何とかしてくれるから、何にも心配しなくていい」
その震えた声は、私の不安をさらに増幅させた。
じいちゃんが戻るまでの間、ばあちゃんはぽつぽつと話してくれた。
このあたりには、「八尺様」と呼ばれる厄介な存在がいるという。
八尺様は、異様に背の高い女性の姿で現れる。
人によって見え方が異なり、喪服を着た若い女や、留袖の老婆、野良着姿の年増など、服装や雰囲気はまちまちだが、共通するのは女性であること、背が尋常ではなく高いこと、そして頭に何かを載せていること、さらに「ぼぼぼぼ」と男のような声で不気味に笑うことだという。
その昔、八尺様は旅人に憑きまとったという噂もあったが、今はこの集落――かつては×村、今は○市の大字にあたる場所――に地蔵によって封じられており、他の場所には出ていかない。
もし八尺様に「魅入られる」と、数日のうちにその人間は取り殺されてしまう。
最後に被害が出たのは十五年ほど前。
地蔵が八尺様の“道”を塞ぐために村境に四ヶ所祀られており、それぞれ東西南北の境界に位置している。
なぜそんなものを封じ込めておく協定を結んだのかは定かでないが、周辺の村と水利権などの交渉の末に、被害が少ないことを条件に受け容れられたらしい。
ばあちゃんの声は、語るにつれてどこか遠い記憶を辿っているようだった。
私は話を聞きながら、現実味のない昔話だと思いたかった。
しかし、目の前で起こっているじいちゃんの焦燥、ばあちゃんの怯え、それらが、私の理性にじわじわと恐怖の輪郭を与えていった。
まもなく、じいちゃんが一人の老婆を連れて戻ってきた。
Kさんと呼ばれるその人は、背は小柄だが、背筋はまっすぐで、目には鋭い光があった。
「えらいことになったのう。
今はこれを持ってなさい」
Kさんはそう言い、お札を手渡してくれた。
さらさらとした和紙の感触が手のひらに残り、墨の匂いが鼻先をかすめる。
そのお札を握りしめると、なぜか冷たい汗が掌ににじんだ。
Kさんはじいちゃんと二階へ上がり、何やら準備を始めた。
ばあちゃんは私から片時も離れず、トイレに行くときも付き添い、ドアを最後まで閉めさせてくれなかった。
その様子に、私はようやく自分が本当に危険な状況にあるのだと実感し始めていた。
しばらくして、私は二階の一室に案内された。
そこは普段使われていない部屋で、窓という窓すべてが新聞紙で目張りされ、その上にお札が貼られていた。
部屋の四隅には白く盛られた塩が置かれ、空気は異様な緊張感に満ちていた。
中央には木でできた小さな箱――簡素な祭壇のようなもの――があり、その上には手のひらほどの仏像が鎮座していた。
部屋の隅には、どこから持ってきたのか「おまる」が二つも並べられていた。
「もうすぐ日が暮れる。
いいか、明日の朝までここから出てはいかん。
俺もばあさんも、お前を呼ぶこともなければ話しかけることもない。
そうだな、明日朝の七時までは絶対ここから出るな。
七時になったら自分から出ろ。
家には連絡しておく」
じいちゃんが、静かだが異様に真剣な表情でそう言った。
私は、ごくりと唾を飲み込むしかなかった。
「今言われたことはよく守りなさい。
お札も肌身離さず、何か起きたら仏様の前でお願いしなさい」
Kさんの声は、どこか祈るように、私の心に響いた。
テレビは見ていいと言われたのでスイッチを入れたが、画面の光はどこか冷たく、番組内容が全く頭に入ってこなかった。
ばあちゃんが用意してくれたおにぎりやお菓子も、喉を通らなかった。
布団に包まり、私は自分の鼓動の速さと、呼吸の浅さばかりを意識していた。
部屋の空気はどこか重く、塩の匂いと畳の湿った香りが混じり合い、鼻の奥を刺激した。
いつしか、私は浅い眠りに落ちていたようだ。
目が覚めたとき、テレビには深夜番組がぼんやりと映っていた。
時計を見ると、午前一時過ぎ。
部屋は冷え切っており、布団の中でさえ肌寒かった。
その時――
コツ…コツ…
窓ガラスを軽く叩く音が聞こえた。
小石を投げつけるのとは違い、誰かが手で優しく、しかし執拗に叩いているような音。
私は息を殺し、耳を澄ませた。
外は風が強くない夜だった。
音が風のせいであるはずがない――そう思いたいのに、心はそれを否定した。
喉の奥が乾き、思わず湯呑みのお茶を一口飲んだが、味は全く感じなかった。
怖さを紛らわせようと、テレビの音量を上げた。
そのとき、不意にじいちゃんの声が聞こえてきた。
「おーい、大丈夫か。
怖けりゃ無理せんでいいぞ」
私はドアに近づきかけたが、じいちゃんの「絶対に出るな」という言葉を思い出し、立ち止まった。
再び声がする。
「どうした、こっちに来てもええぞ」
その声は確かにじいちゃんの声に似ていた。
しかし、なぜか心の奥底で「これは絶対にじいちゃんじゃない」と確信した。
全身の産毛が逆立ち、背筋に冷たい汗が流れた。
部屋の隅の盛り塩に目をやると、塩の表面がどす黒く変色していた。
私は仏像の前に飛び出し、お札を握りしめて「助けてください」と必死に祈った。
指先が震え、心臓が耳の奥で大きく脈打つ。
そのとき、
「ぽぽっぽ、ぽ、ぽぽ…」
あの声が、窓の外から響いた。
窓ガラスが今度は、トントン、トントンと鳴る。
私は、あの背の高い女が、下から手を伸ばして窓を叩いている情景を想像してしまい、恐怖で身体が硬直した。
唯一できることは、仏像に祈ることだけだった。
長い、長い夜だった。
窓を叩く音と不気味な声が、いつ止んだのかは覚えていない。
気がつくと、テレビは朝のニュースを映しており、画面の隅には七時十三分とあった。
私は、いつの間にか眠ってしまったか、気を失っていたのかもしれない。
盛り塩はさらに黒ずみ、部屋の空気は重苦しかった。
恐る恐るドアを開けると、廊下にはばあちゃんとKさんが立っていた。
二人とも、ほっとしたように、涙ぐみながら私を抱きしめてくれた。
下に降りると、親父も来ていた。
じいちゃんが外から「早く車に乗れ」と叫び、庭に出ると、見慣れないワンボックスのバンが停まっていた。
庭には数人の男たちが集まっており、私は助手席のKさんに挟まれ、バンの中列の真ん中に座らされた。
バンは満員で、私は八方を囲まれる形になった。
「大変なことになったな。
気になるかもしれないが、これからは目を閉じて下を向いていろ。
俺たちには何も見えんが、お前には見えてしまうだろうからな。
いいと言うまで我慢して目を開けるなよ」
右隣の五十代くらいの男が、低い声でそう言った。
車列は、じいちゃんが運転する軽トラック、次に私たちのバン、最後に親父の乗用車という順で、ゆっくりと村道を進んだ。
スピードはおそらく二十キロにも満たない。
バンの中は、重い沈黙に包まれていた。
Kさんが「ここがふんばりどころだ」と呟き、念仏のようなものを唱え始める。
「ぽっぽぽ、ぽ、ぽっ、ぽぽぽ…」
また、あの声が聞こえてきた。
私はお札を握りしめ、言われたとおりに目を閉じ、下を向いていた。
だが、恐怖と好奇心が混じり合い、つい薄目を開けてしまった。
ウインドウの外を、白っぽいワンピースが、バンと並ぶように移動しているのが目に入った。
頭は窓の外にあって見えない。
しかし、その姿は車内を覗き込もうと、頭を下げる仕草を始めていた。
私は思わず「ヒッ」と声を漏らした。
「見るな!」
隣の男が鋭く叱りつけ、私は慌てて目をきつく閉じた。
コツ、コツ、コツ――バンの窓ガラスを叩く音が始まる。
車内の人たちも、短く呻き声を漏らした。
アレは、見えなくても、聴こえなくても、音だけは聞こえてしまうようだった。
Kさんの念仏の声が強くなる。
やがて、声と音がふっと途切れると、Kさんが「うまく抜けた」と安堵の声を上げた。
周囲の男たちも、「よかったなあ」と小さくつぶやいた。
車は広い道に出て停まり、私は親父の車に乗り換えさせられた。
Kさんが近寄ってきて、「お札を見せてみろ」と言う。
私は無意識に握りしめていたお札を見せると、全体が黒っぽく変色していた。
Kさんは「もう大丈夫だと思うが、念のためしばらくこれを持っていなさい」と新しいお札を渡してくれた。
その後、私は親父と二人で自宅へ戻った。
バイクは後日、じいちゃんと近所の人が届けてくれた。
親父は八尺様について知っていたらしく、子供の頃に友達が魅入られて命を落としたと話してくれた。
バンに乗っていた男たちは、すべてじいちゃんの一族に関係がある人たちだという。
じいちゃんも親父も、自分と血のつながりがある者で八尺様の目を誤魔化そうと、あのような車列を組んだのだそうだ。
親父の兄弟(伯父)は一晩で駆けつけることができなかったため、血縁は薄くてもすぐに集まれる人たちに来てもらった。
夜より昼のほうが安全だという理由で、私は一晩部屋に閉じ込められていた。
じいちゃんや親父は、最悪の場合は自分たちが身代わりになる覚悟だったという。
あの夜、声をかけたのはじいちゃんかと電話で確認したが、じいちゃんは断固として否定した。
やはり、あれは……八尺様だったのだ。
八尺様の被害は、未成年の若い者、特に子供が遭うことが多いという。
極度に不安な状態にあるとき、身内の声で呼びかけられれば、つい心を許してしまう――それが、八尺様の狙いなのだろう。
それから十年が経ち、あの出来事も記憶の底に沈みかけていた頃、ばあちゃんから電話があった。
「八尺様を封じている地蔵様が誰かに壊されてしまった。
それも、お前の家に通じる道のものがな」
じいちゃんは二年前に亡くなっており、当然葬式にも行かせてもらえなかった。
じいちゃんも、起き上がれなくなってからは「絶対来させるな」と言い続けていたという。
私は、それが迷信だと自分に言い聞かせながらも、胸の奥には冷たい恐怖が再び巣食い始めている。
「ぽぽぽ…」――あの声が、今にも耳元で響きそうな気がしてならない。
あの春の日、祖父母の家のあの広縁で感じた平和な陽だまり――その光と影の境界線で、私は決して越えてはならないものを覗き見てしまったのだ。
いまも、春風が吹き、遠くで「ぽぽぽ…」という声が聞こえる気がする度、私は思う。
「あの夜、私の命が繋がれたのは、偶然ではなく、祖父母の、家族の、そして村の人々の切実な願いと、見えざる力があったからなのだ」と――。
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