怖い話:八尺の影──祖父の村にて、春光の奥に潜むもの

八尺の影──祖父の村にて、春光の奥に潜むもの

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春の光は、どこまでも柔らかく、どこまでも遠慮がちに田畑を包んでいた。
祖父の家は、私の住む町から車で二時間ほどのところにあった。
幾度も通ったその道は、いつの間にか体の奥に地図のように刻み込まれている。
私は高校生になり、バイクを手に入れてからというもの、夏にも冬にも、長い休みのたびに一人きりで祖父母を訪ねることが習慣になっていた。
農家の匂いが好きだった。
陽の匂い、土の匂い、畳の匂い――それらが、私の中の「遠く」を優しく掻き立てる。


 けれど、あの春を最後に、私はもう十年以上も祖父の家を訪れていない。
行かなかったのではない。
行けなかったのだ。
理由は、今も私の中に、冷たい石のように沈んでいる。


 *

 春休みの始まり、私はいつもと同じようにバイクで祖父の家を訪れた。
空は高く澄み、まだ風は冷たかったが、広縁に射す日差しはぽかぽかと温かかった。
私は縁側に腰を下ろし、ぼんやりと庭を眺めていた。
ふと、耳慣れない音が空気の隙間から忍び込んできた。


 「ぽぽ、ぽぽっぽ、ぽ、ぽっ……」

 それは、人の声とも鳥の鳴き声ともつかない、不思議な音だった。
濁ってもいない、澄んでもいない、ただ不規則に空気を震わせていた。


 私は身を起こし、音のほうを探った。
すると、生垣の上に、帽子が見えた。
置かれているのではなかった。
帽子は、生垣に沿って滑るように横切り、垣根の切れ目に、白いワンピースを着た女が立っていた。
帽子は、彼女が被っていたのだ。


 生垣は二メートルはある。
あの高さから頭を出せる人間など、見たことがない。
私は、ただ呆然とその女を見つめていた。


 女は、無言のまま、再び移動し、やがて視界から消えた。
帽子も消え、「ぽぽぽ」という音も、いつの間にか途絶えていた。


 私は現実感のないまま、居間に戻り、祖父母にそのことを話した。


 「さっき、大きな女の人を見たんだ。
男が女装してたのかもしれないけど」

 祖父母は、最初は「へぇ」と曖昧に相槌を打っただけだった。
しかし、私が「垣根よりも背が高かった。
帽子をかぶってて、『ぽぽぽ』って変な声を出してた」と言った瞬間、二人の動きが止まった。
まるで時間が凍りついたように。


 次の瞬間、祖父は怒りにも似た気迫で、「いつ見た」「どこで見た」「垣根よりどれくらい高かった」と、矢継ぎ早に問いただした。
私は戸惑いながらも答えるしかなかった。


 祖父は無言で廊下へ出ていき、電話をかけ始めた。
引き戸の向こうで何を話しているのか、よく聞き取れなかった。
祖母は、どこか震えているように見えた。


 やがて祖父が戻り、「今日は泊まっていけ。
いや、今日は帰すわけにはいかなくなった」と言った。


 私は胸の奥で、何かが軋む音を感じていた。
何か、とんでもないことをしてしまったのだろうか。
けれど、あの女も、私が見ようとしたわけではない。
むしろ、向こうから現れたのだ。


 「婆さん、後を頼む。
俺はKさんを迎えに行ってくる」

 祖父はそう言い残し、軽トラックで出ていった。


 私は恐る恐る祖母に尋ねた。


 「八尺様に魅入られてしまったようだよ。
じいちゃんが何とかしてくれる。
何にも心配しなくていいから」

 祖母の声は震えていた。
その震えは、まるで家全体を包む春の霞のように、じわりじわりと私の中に広がっていった。


 やがて祖母は、ぽつりぽつりと話し始めた。


 この村には「八尺様」と呼ばれるものがいる――背丈が八尺もある、大きな女。
人によって姿は違うが、共通して異様に背が高く、頭に何かを載せている。
そして「ぼぼぼぼ」と、男のような声で笑う。
八尺様に魅入られた者は、数日のうちに取り殺される。
村の境には地蔵が祀られ、八尺様の移動を封じている……。


 話を聞きながら、私は現実感を失っていた。
伝承だ。
昔話だ。
だが、祖母の声があまりに切実で、私はただ黙って頷くしかなかった。


 *

 やがて祖父が、Kさんという老婆を連れて戻ってきた。


 「えらいことになったのう。
今はこれを持ってなさい」

 Kさんはそう言い、私にお札を渡した。
それから二人は二階に上がって何やら始めた。
祖母はずっと私のそばを離れなかった。
トイレに行くときも、ドアを完全に閉めることは許されなかった。


 私はそのとき、はじめて「これは本当にまずいのかもしれない」と思い始めていた。


 二階の一室に通されたとき、私は息を飲んだ。
窓はすべて新聞紙で目張りされ、お札が貼られ、四隅には盛塩が置かれていた。
木箱の上には小さな仏像。
見慣れない「おまる」まで用意されている。


 「いいか、明日の朝七時までここから出てはならん。
俺も婆さんも、お前を呼ぶことも、話しかけることもない。
七時になったら出なさい。
家には連絡しておく」

 祖父の言葉は、いつになく真剣だった。


 「お札も肌身離さず。
何かあったら仏様の前でお願いしなさい」

 Kさんの声も、低く、固かった。


 私はただ黙って頷いた。
部屋に閉じ込められ、おにぎりやお菓子をもらったが、食欲はどこかに消えていた。
冷たい不安が、体中を這い回っていた。


 *

 いつの間にか、私は眠っていた。
目が覚めると、テレビの画面に深夜番組が映っていた。
時計を見ると午前一時過ぎ。
やけに静かな夜だった。


 そのとき、窓ガラスをコツコツと叩く音がした。
小石ではない。
人の指が、軽くガラスを叩くような音。
私はじっと耳を澄まし、必死に「風のせいだ」と自分に言い聞かせた。
だが、心臓は早鐘のように鳴り続けている。


 やがて、祖父の声が聞こえた。


 「おーい、大丈夫か。
怖けりゃ無理せんでいいぞ」

 私は思わずドアに近づきかけたが、祖父の言葉を思い出した。
再び声がする。


 「どうした、こっちに来てもええぞ」

 その声は、祖父に限りなく似ているのに、どこか違っていた。
全身に鳥肌が立つ。
盛塩を見ると、上のほうが黒く変色していた。


 私は仏像の前に座り込み、お札を握りしめて必死に祈り始めた。


 「助けてください、助けてください……」

 そのとき――

 「ぽぽっぽ、ぽ、ぽぽ……」

 あの声が、また聞こえた。
窓ガラスが、ゆっくりと、しかし確かに叩かれている。
「それ」は、きっと下から腕を伸ばして、窓を叩いているのだ。
私はただ、仏像にすがって祈ることしかできなかった。


 夜は、永遠にも思えるほど長かった。
だが、夜明けは必ずやってくる。
テレビの画面に朝のニュースが流れ、時計は七時十三分を指していた。
ガラスを叩く音も、声も、いつの間にか消えていた。
盛塩はさらに黒く変色している。


 私はおそるおそるドアを開けた。


 そこには、涙を浮かべた祖母とKさんがいた。
祖母は私を抱きしめ、「よかった、よかった」と繰り返した。
階下には父の姿もある。
祖父は外から「早く車に乗れ」と声をかけてきた。
庭には、見慣れぬワンボックスのバンと、何人もの男たちが立っていた。


 私はバンの中列の真ん中に座らされ、九人の男たちに囲まれた。
Kさんは助手席に座り、祖父の軽トラが先導し、父の車が後ろを固める。
車列はゆっくりと進んだ。


 「これからは目を閉じて下を向いていろ。
俺たちには何も見えんが、お前には見えてしまうだろうからな」

 隣の男が低い声で言った。
私は、お札を強く握りしめ、指先が痛くなるほどだった。


 「ここがふんばりどころだ」

 Kさんがぽつりとつぶやき、念仏のようなものを唱え始めた。


 「ぽっぽぽ、ぽ、ぽっ、ぽぽぽ……」

 また、あの声が聞こえてきた。
私は言われたとおりに目を閉じ、下を向いた。
だが、どうしても好奇心に抗えず、わずかに目を開けて外を見た。


 白いワンピースが、車に合わせて移動していた。
頭は窓の外にあり、見えなかった。
だが、車内を覗き込もうとするような仕草が見えた。
私は思わず「ヒッ」と声を漏らしてしまった。


 「見るな」

 隣の男が、声を荒げた。
私は目をきつく閉じた。


 コツ、コツ、コツ――

 ガラスを叩く音が始まった。
車内にいる皆も、短く呻き声をあげていた。
Kさんの念仏が、いっそう強くなる。


 やがて、音も声も、ふっと消えた。


 「うまく抜けた」

 Kさんの声が、安堵とともに響いた。


 車は道の広い所で止まり、私は父の車へ移された。
Kさんは新しいお札を私に手渡し、「もう大丈夫だと思うが、念のためしばらくはこれを持っていなさい」と言った。


 その日、私は父とともに自宅へ戻った。
バイクは後日、祖父と近所の人が届けてくれた。


 父も八尺様のことを知っていた。
子どもの頃、友人の一人が魅入られて命を落としたことがあるのだという。
バンに乗っていた男たちは、皆祖父の一族に関係のある人々だった。
前を走った祖父、後ろを走った父も、血のつながりがある。
そうやって、少しでも八尺様の目を欺こうとしたのだ。


 「もう、あそこには行かないように」

 父はそう言って、私の手を強く握った。


 その夜、祖父に電話で尋ねた。
「あの夜、声をかけた?」と。
しかし祖父は、きっぱりと否定した。


 やはり、あれは――

 私は改めて、背筋が冷たくなるのを感じた。


 *

 時は流れ、十年が経った。


 私はもう、あの出来事を忘れかけていた。
だがある日、祖母から電話があった。


 「八尺様を封じている地蔵様が壊されてしまった。
それも、お前の家に通じる道のものがな」

 祖父は二年前に亡くなっていた。
葬式にも、私は行かせてもらえなかった。
祖父が「絶対に来させるな」と言い残していたからだという。


 迷信だ、と自分に言い聞かせる。
だが、胸の奥で小さな不安が、消えずに残っている。
「ぽぽぽ……」という、あの声がどこかで聞こえてきそうな気がして――私はふと、窓の向こうを見つめた。
春の光が、静かに、しかしどこか心もとなく、部屋の隅々を照らしていた。
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