その出来事は、春の終わりを感じさせる、柔らかな午後の光が店内に差し込む日だった。
私が当時勤めていた職場――控えめな木目のカウンターと、どこか昭和の面影を残す応接セットが並ぶ、少し古びた営業所。
その日は薄いカーテン越しに淡い陽射しが静かに落ち、埃の粒子が金色にきらめいていた。
窓の外では、風に揺れる街路樹の若葉が、静かなざわめきと共に、春の終わりと初夏の始まりを告げていた。
そんな空間に、婚約中だという若いカップルが現れた。
男性は端正な顔立ちに緊張の色を浮かべ、女性は華奢なワンピースに身を包み、指先をそっと絡めて席に着いた。
カウンター越しに座る新人営業マン――まだ社会人としての空気を身にまといきれていない、初々しさと不安が同居する彼は、額にうっすらと汗を滲ませ、声はかすかに震えていた。
彼の胸ポケットには、先輩から受け継いだばかりのボールペンが一本、まるでお守りのように差し込まれている。
「本日はご来店ありがとうございます」
新人クンの声は少し上ずり、だが誠意が伝わる。
カップルは会釈し、女性の瞳にはどこか期待と不安が交錯する光が宿っていた。
私は数メートル離れたデスクで事務作業をしながら、背中越しにそのやりとりを感じ取っていた。
店内にはエアコンの微かな送風音と、時折遠くから聞こえる車の音。
書類をめくる紙の擦れる音が妙に大きく感じられ、空気にはわずかにインクと古い木材の匂いが漂っていた。
やがて話は順調に進み、カップルは新生活のための契約を決意する。
緊張と安堵が混じった空気の中、申込み金がテーブルの上にそっと置かれた。
コインの微かな金属音が、静寂をわずかに震わせる。
その瞬間、新人クンの顔には達成感と同時に、何かしらの不安がよぎったのが見てとれた。
「それでは、領収書をお渡ししますね」
彼は慣れない手つきで領収書を書き、引き出しから印紙を取り出す。
小さな紙片――薄緑色の印紙は、どこか旧時代の儀式を思わせる。
彼の指が少しだけ震えていたのは、私の位置からもはっきり分かった。
印紙の裏面に見える、うっすらとした糊の光沢。
新人クンは一瞬、印紙を凝視した。
その沈黙の数秒間――彼の脳裏には、一年前の研修で「印紙は舌で湿らせて貼ると良い」と冗談半分に言われた、先輩の言葉がふとよぎったのかもしれない。
「自分が舐めるのは、何となく失礼なのではないか」「どうしたら一番、相手に不快感を与えずに済むだろう」。
その刹那の逡巡が、彼の視線の揺れとなって現れる。
そして次の瞬間、彼は印紙を女性の方へ差し出し、声を潜めるように――しかし、店内の静寂に妙に響く調子で言った。
「すみませんが、これ舐めてもらえませんか?」
その言葉が空間を切り裂いた。
カップルの男性は一瞬目を見開き、女性は戸惑いと困惑の入り混じった表情を浮かべた。
室内の空気が、一気に張りつめた。
エアコンの送風音さえも遠ざかり、私の耳には自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえる気がした。
その瞬間、隣に座っていた上司が反射的に手を伸ばし、新人クンの後頭部を軽く平手打ちした。
乾いた音が、場の緊張を一度きりの雷鳴のように貫いた。
新人クンは驚きに目を見開きながらも、すぐに顔を赤らめてうつむいた。
「ボクが舐めたら感じ悪いだろうと思って、せめて女性の方が良いかと…」
彼は、必死に言い訳を紡ぎ出そうとするが、声はかすれ、両手は膝の上でこわばっていた。
その場にいた全員の視線が、新人クンに集中していた。
しかし、私は後ろの席で、事務書類に目を落としながら、肩が小刻みに震えていくのを抑えきれなかった。
笑いをこらえるために唇をぎゅっと噛みしめる。
空気は一瞬、妙な甘さと緊張が入り交じった匂いに包まれ、私は自分の喉が渇いていくのを感じながら、耐えるしかなかった。
その後、カップルは苦笑いを浮かべて場を和ませようとし、上司も咳払いひとつで場を仕切り直した。
新人クンは、どこか遠い目をしながら、無言のまま印紙を自分で舐めて領収書に貼り付けた。
その所作は、まるで自分の失敗を噛みしめるかのようだった。
春の午後の柔らかな光の中で、あの日の印紙の湿り気と、肩を震わせる私の滑稽な姿は、今でも鮮烈な記憶として心に残っている。
仕事・学校の話:湿った印紙と震える肩――ある春の午後、婚約カップルと新人営業マンの交錯する心理劇
湿った印紙と震える肩――ある春の午後、婚約カップルと新人営業マンの交錯する心理劇
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