窓の外には春の陽射しがやわらかく差し込んでいた。
カーテン越しに揺れる光の粒が、事務所の無機質な机や書類の山々に、ほんのわずかな温もりを与えている。
私はその日も、いつものように書類の束に向き合いながら、淡々と事務作業をこなしていた。
コピー機の低い唸り声や、遠くから聞こえる車のクラクション。
それらが単調なリズムで空間を満たし、時折、微かに花粉の気配を運ぶ春風が窓の隙間から忍び込んだ。
そんな午後の静寂を破ったのは、応接スペースに響いた若い男女の声だった。
新入社員の佐久間が、少し緊張した面持ちで、婚約中とおぼしきカップルの接客をしている。
女性の指に光る細いリングが、ふいに陽光を受けてきらりと輝いた。
佐久間は、まだ社会人としての礼節や機微を、手探りでなぞっている最中だ。
ぎこちない所作の中にも、彼なりの誠意が滲み出ていた。
話し声は途切れがちで、それでも彼の声には、拙いながらも真摯さがあった。
やがて契約の話がまとまり、テーブルの上には申し込みの書類と小さな封筒が置かれた。
佐久間は、まるで宝物でも扱うように、封筒から申込金を取り出す。
彼の額にはうっすらと汗が滲み、こめかみを何度も拭う仕草が続いた。
「ありがとうございます」
彼の声には達成感と安堵が混じっていた。
それから、領収書に印紙を貼る段になり、佐久間はふと手を止めた。
印紙の裏に触れた指先が、わずかにためらう。
私は後ろの机越しに、その様子をそっと見つめていた。
若葉のような初々しさと、どこか危なっかしさが同居している。
次の瞬間、佐久間は印紙をそっと女性客の前に差し出した。
「すみませんが、これ……舐めてもらえませんか?」
その言葉は、春の空気に不意の風穴を開けるように、場の空気を一瞬で凍りつかせた。
女性は目を丸くし、隣に座る男性も驚きに眉をひそめる。
隣席の上司・田中課長が、あきれたような溜息とともに佐久間の肩を軽く叩いた。
「おい。
常識だ、常識」
乾いた音が微かに響いた。
佐久間の顔が一気に赤く染まり、彼は慌てて言い訳を始める。
「いや、その……僕が舐めたら、なんだか失礼かと思って……女性のほうがいいのかなって……」
言葉はしどろもどろで、声はかすれ、消え入りそうだった。
彼の中で、恥ずかしさと後悔が波のように押し寄せているのが、遠目にも伝わってくる。
その瞬間、私は肩が震えるのをどうにか押さえ込まなければならなかった。
笑いを堪えきれず、唇をぎゅっと噛む。
けれども、喉の奥がくすぐったくて、涙が滲みそうになる。
「なぜ、こんなにも可笑しいのだろう」。
それは、若さゆえの不器用さがあまりにも眩しく、痛々しく、そして、どこか愛おしかったからだろう。
春の午後の光は、何事もなかったように、またゆるやかに事務所の隅々を照らしていた。
私たちのささやかな騒動など、世界の片隅でそっと消えていく小さな波紋にすぎない。
だが、その一瞬だけは、確かに私たちの心に深く刻まれた。
あの日の印紙の味。
いまも、ふと思い出すたびに、胸の奥がくすぐったくなるのだ。
仕事・学校の話:春愁の午後、印紙の味を巡るささやかな事件
春愁の午後、印紙の味を巡るささやかな事件
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