真夜中の台所で交差する涙と記憶――20年越しの選択が浮かび上がる夜

深夜二時を少し回った頃、寝室の空気は静寂という名の重しに包まれていた。
カーテン越しの月光が青白い斑となってベッドを撫で、時計の針が微かに時を刻む音だけが、闇に小さな穴を開けている。
妻は、ふとした物音で目を覚ました。
左隣に手を伸ばすと、そこには夫の温もりも、寝息の気配すらない。
シーツは冷たく、彼の不在が生々しく指先に伝わってくる。

心臓がひときわ大きく鳴り、寝ぼけ眼をこすりながら、彼女は薄手のカーディガンを羽織った。
足を床につけると、床板がきしむ音が不安を増幅させる。
廊下の先、階下からはかすかに食器が触れ合うような音と、コーヒーのほろ苦い香りが漂ってきた。
階段を一歩ずつ降りるたび、冷たい空気が足首にまとわりつき、家全体が夜の静けさに吸い込まれていくようだった。

キッチンのドアをそっと押し開けると、淡い蛍光灯の光が夫の背中を浮かび上がらせる。
彼は小さな丸椅子に座り、カップから立ち上る湯気の向こうで、肩を震わせていた。
壁に向かって虚ろな目を向け、その手には半分冷めたコーヒーが握られている。
空気はどこか湿り気を帯び、彼の背中からは、言葉にできない重苦しさが滲み出ていた。

「……どうしたの？こんな時間に、眠れなかったの？」
妻は声をひそめて問いかけた。
その言葉は静寂を破る小さな波紋となり、夫の肩がわずかに跳ねる。
彼女の胸の奥では、得体の知れない不安がじわじわと広がっていた。
夫は、涙で赤く染まった目を細め、しばらく黙ったままだった。
コーヒーの苦味と涙の塩味が混じったような表情で、彼はようやく口を開く。

「……20年前の、初めてのデートのこと、覚えてるか？」
その声はかすれて震え、どこか遠い過去に置き去りにされた少年のようでもあった。
妻は一瞬息を呑み、脳裏に鮮明な映像がよみがえる。
16歳の夏、まだ幼さの残る彼と手を繋いだあの夕暮れ。
初恋のときめき。
だが、その記憶には、父親の怒りと、銃口の冷たい光も混じっていた。

「ええ、忘れるわけないわ」
彼女はそっと夫の隣に腰を下ろし、彼の手に自分の手を重ねた。
手のひらの温もりが、過去と現在をつなぐ細い橋になる。

夫はしばし黙した後、再び唇を震わせる。

「……あのとき、君のお父さんが俺にこう言ったのを覚えてるか？『娘と結婚するか、それとも刑務所で20年過ごすか、選べ』って……」
彼の声には自嘲と苦味が混じり、目には言葉にできぬ後悔と疲労が浮かんでいた。

キッチンの時計が、静かに三時を告げる。
「どうして、急にそんなことを？」妻は問いかけるが、心の奥では答えを知りたくない自分もいた。

夫は涙を袖で拭いながら、ぽつりと呟いた。

「……もしあのとき、刑務所を選んでたら――今日、出られたんだよ」
その言葉は、夜の静けさに溶けていく。
妻の胸を冷たい針が貫き、二人の間には長い沈黙が落ちた。
蛍光灯の明かりが二人の影を壁に長く伸ばし、窓の外では薄明が静かに始まりつつあった。

20年という歳月が、いま静かに問い直されていた。