夜半、静寂はガラスのように冷ややかに家を包んでいた。
外には風もなく、都会の遠い灯りが窓の隅に微かに滲むだけだった。
目覚めた瞬間、枕元の温もりが欠けていることに、彼女はぼんやりと気づいた。
夫の寝息も、あの小さな寝返りも、今夜に限ってそこにはなかった。
彼女は薄手のショールを肩に掛け、階段を一段ずつ静かに降りていく。
床の冷たさが足裏に沁みる。
キッチンからは、ほのかなコーヒーの香りが漂っていた。
苦味を孕んだその香りは、夜の深さとどこか呼応しているようだった。
灯りの下、夫はテーブルに両肘をつき、湯気立つマグカップを前にしていた。
壁を見つめている。
いや、壁の向こう、過ぎ去った時間の一点を見据えているのかもしれない。
彼の頬には、涙の筋が静かに流れていた。
「どうしたの……こんな時間に」
声は、思ったよりも小さく震えていた。
夫はゆっくりとこちらを振り向き、目の縁を袖で拭う。
瞳の底に、二十年という歳月が沈殿しているのが見えた。
「……覚えてるか。
二十年前の初デートのこと。
まだ、君が十六でさ」
彼女は微笑んでうなずく。
思い出は、春先の淡い光のように胸に差し込んだ。
「ええ、もちろん」
夫はうつむいたまま、苦笑する。
「君のお父さんが俺に銃を向けて――言ったろ。
『娘と結婚するか、それとも二十年刑務所に行くか選べ』って」
遠い昔の、信じがたいほど青く未熟な日々。
彼女の父の冗談めいた脅し文句。
あのときの父の目の色、手の震えすら鮮やかに蘇る。
「覚えてるわ。
でも、どうして、いまその話を?」
夜の静けさが、ふたりの間に柔らかい膜のように降りる。
夫は深く息を吐き、頬を伝う涙をまたひとすじ指で拭った。
「もし、あのとき刑務所を選んでいたら……今日、出られてたんだよ」
コーヒーの苦味と、男の冗談のような独白。
けれどその声には、どこか言い知れぬ重さがあった。
月の光は窓辺に淡い輪郭を描き、夫婦の背中を優しく撫でていた。
彼女は何も言わず、そっと夫の手の上に自分の手を重ねた。
その温もりが、過ぎ去った二十年の歳月を静かに肯定するように、ふたりの間に溶けていく。
夜はまだ深く、ふたりの静かな沈黙だけが、これからも続く物語の始まりのように、そこにあった。
恋愛の話:二十年目の夜、コーヒーの苦さは涙に溶けて
二十年目の夜、コーヒーの苦さは涙に溶けて
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