朝靄が街を薄絹のように包み込んでいた。
遠くで電車の警笛が、まるで寂しげな獣の遠吠えのように響く。
幼いころの記憶は、いつもこの霞んだ光の中から始まる。
両親が離婚したのは、母が二十四歳、父が二十六歳、そして私はまだ六歳だった。
記憶の片隅で、誰かの泣き声や怒声が反響している。
だが、それが母のものか父のものか、あるいは自分自身のものだったのか、もう思い出せない。
ただ、私は望まれて生まれてきた子ではなかった――その事実だけが、冷たい手すりのように心に残っている。
両親はそれぞれ新しい人生を選び、親権を押し付け合った。
まるで誰もが私を、両手で持ちきれない何かのように扱った。
そんなときだった。
母の弟――伯父が、低く、しかし確かな声で叫んだのだ。
「俺がこの子に愛を教える。
貴様らは最低だ。
どこへでも行ってしまえ、二度とこの子の前に現れるな」
その一言で、世界は音を立てて崩れ、そして新しく始まった。
伯父と私、奇妙な二人きりの生活――私はただ、突然いなくなった両親と、突然現れた大きな男に戸惑いながら、季節の移ろいを感じていた。
「ごうちゃん、と呼べ」
ある日、伯父――ごうちゃんはそう言った。
たぶん、「伯父さん」と呼ばせるのは残酷だと考えたのだろう。
二十三歳の土木作業員。
手は分厚く、爪の間にはいつも土が入り込んでいた。
けれど、その手で私を軽トラに乗せ、幼稚園に迎えに来てくれた。
エンジンの振動が眠気を誘い、窓の外の景色が逆光の水彩画のように流れていった。
夕暮れになると、スーパーの照明が白く眩しかった。
ごうちゃんは料理が下手だったけれど、「不味いな」と笑い、私もつられて笑った。
食卓に並ぶ焦げた卵焼きや、味の濃い味噌汁。
けれどなぜか、その味は今も舌の奥に残っている。
苦いコーヒーのように、後からじんわりと温かさが広がる。
休日は、朝の冷たい空気を吸い込みながら、近所の子供たちとキャッチボールやサッカーに興じた。
ごうちゃんは容赦がなく、本気で投げ、本気で転がした。
私は何度も転び、泣きそうになったが、そのたびにごうちゃんの手が、荒っぽく頭を撫でてくれた。
悪いことをすれば、拳骨が飛んだ。
けれど、良いことをすれば、髪をガシガシと撫でて褒めてくれた。
その手は、どこか枯れ枝のようにごつごつしていたが、不思議なほど温かかった。
日々は淡々と過ぎていった。
小学校の授業参観には、借り物のようなスーツでごうちゃんが現れた。
肩が合わず、袖がやけに短かった。
でも、私の席を見つけると、遠慮がちに手を挙げてみせた。
遠足の前夜は、お弁当作りで台所の明かりが遅くまで消えなかった。
焦げたウインナー、曲がった卵焼き――けれど、そのどれもが、私の誇りだった。
やがて私は高校生になり、ラグビー部に入った。
試合前になると、ごうちゃんは大きな手で私の肩を揉みほぐしてくれた。
「糞ガキが家のことなんか心配すんな。
やりたいことがあるんだろう、俺はまだ若い」と言って、専門学校への進学も後押ししてくれた。
就職が決まったとき、ごうちゃんは鼻水を垂らして泣いた。
初めての給料でスーツを作り贈ると、まるで子供のようにはしゃいだ。
その姿を見て、私は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
ごうちゃん、結婚式にも来てくれたね。
披露宴の会場で、ひときわ大きな拍手をくれるあなたの姿は、あの日の夕焼けよりも鮮やかだった。
けれど、神様は本当に不在なのだろうか。
ある日、ごうちゃんは仕事中に倒れ、そのまま病院に運びこまれた。
手術を受けたものの、病室の白い天井の下で、静かに命の灯火が細くなっていった。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
意識を失いかけたごうちゃんに、私は咄嗟に叫んでいた。
「父さん!」
自分でも驚いた。
喉の奥が熱くなり、涙が止まらなかった。
ごうちゃんはうっすらと目を開け、私の頭をそっと撫でてくれた。
その手は、まるで枯れ枝のように細く、軽かった。
けれど、確かに温もりが残っていた。
そして、ごうちゃんは静かに目を閉じた。
季節が幾重にも巡り、私は家庭を持った。
病室で紹介した女の子と結婚し、男の子が生まれた。
ごうちゃんから一字もらって名付けた。
あなたに抱いてほしかった。
小さな手を、あなたの大きな手で包んでほしかった。
命日が来るたび、私は涙を堪えきれない。
実の両親の顔はもう思い出せない。
だが、血のつながりがなくても、あなたは私の父であり、母であり、世界そのものだった。
もし生まれ変われるのなら、今度こそ本当にあなたの子供として生まれたい。
そして何度でも、あのごつごつした手で頭を撫でてほしい。
今、とても会いたい。
春の薄明かりの中、あなたの名を、そっと呼びたくなる。
切ない話:春の薄明かり、枯れ枝の手に撫でられて
春の薄明かり、枯れ枝の手に撫でられて
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