玄関の足音が告げる異変―女の直感と男の隠蔽工作、静謐なる家庭の亀裂の物語

夕暮れが静かに家々を包み込む頃、街路灯の淡い光が窓ガラスを柔らかく照らしていた。
外気は一日の終わりを告げるように冷え始め、微かな湿り気がカーテンの隙間から忍び込んでくる。
リビングの空気は、湯気の立つ味噌汁やまだ残る朝のコーヒーの香りと混ざり合い、どこか安心感に満ちている。
けれど、その平穏の奥には、誰にも気づかれぬ微かな波紋が広がっていた。

「女の勘」という言葉に人は簡単に頷きがちだが、実際には、鋭敏な五感と膨大な記憶、そして長年の生活の積み重ねが織りなす絶妙な感覚が、その直感を形作っている。
かつて、ある女性がいた。
彼女は、夫が玄関からリビングへと歩むたった数秒間、足音のリズムが不自然に跳ねていることに気づいた。
革靴の踵がフローリングを叩く乾いた音。
普段は規則正しく、少し重たげな歩調。
しかしその日、足音はどこか軽快で、まるで躊躇いが混ざっていた。
その違和感が、ただちに彼女の心の警鐘を鳴らす。

静まり返ったリビングの空気が、一瞬だけ張りつめる。
夫は「ただいま」と何気ない声を投げかけるが、そのトーンには微細な震えが混じっていた。
彼女の指先は食卓の上のコップを握りしめ、無意識に力がこもる。
心の奥底では、過去の断片的な記憶――夫の視線の逸らし方、休日の過ごし方の微妙な変化、香水の香りに混じる見知らぬ匂い――が波紋のように広がっていく。
彼女の全身は、まるで小動物のように全感覚を研ぎ澄まし、目の前の静かな日常に潜む異変を探知しようとする。

――こうした敏感さの前では、男の隠し事など滑稽なものだ。
俺の場合、それを見破られぬよう、気の遠くなるほど細かな策略を積み重ねてきた。

例えば、どんなに暇を持て余していても、妻からの電話には即座に出ないようにする。
携帯が震えるたび、心臓がひときわ高鳴る。
あえて数分放置してから、あくまで無関心を装い電話を取る。
その間、部屋の中では時計の針の音が妙に大きく響き、沈黙の圧力が耳を締め付ける。

時には、理由もなく「ちょっと外の空気を吸ってくる」と言い残し、ふらりと行方をくらます。
コンビニの自動ドアが開く音、店内の蛍光灯の冷たい明かり、レジ袋のガサガサという音すら、どこか現実味を失っている。

携帯電話は、常に手元から離さない。
意味もなくトイレや風呂場にまで持ち込み、画面を伏せてテーブルの隅に置く。
指先には、握りしめた携帯の熱と、隠しごとをしていることへの冷たい汗が交錯する。

爪の手入れにも並々ならぬ神経を使う。
加藤鷹のように爪の先を丁寧に磨き、甘皮を処理し、指の節々までクリームを塗り込む。
この作業は、彼女の視線を意識しながら行うものであり、同時に自分の焦燥を誤魔化す儀式でもあった。

さらに、たとえ深夜のコンビニに行くだけでも、無意味に香水を纏う。
スプレーから噴き出す液体が肌に触れる冷たさ、香りが空気中に拡散していく瞬間、なぜか罪悪感が胸を締めつける。
香水と自分の体温が混じり合う匂いは、時折、自分ですら違和感を覚えるほどだ。

こうして日々、俺は「普通」を装いながら、どこか不自然な行動を積み重ねている。
そのたびに、家の空気はじわじわと重くなり、妻との会話にも目に見えぬ壁が生まれた。

リビングの明かりは温かくとも、互いの心には薄い霧がかかる。

――どうだ、俺の努力は凄いだろ？と自嘲気味に思う。
しかし、皮肉なことに、その不自然さこそが、妻の勘をますます研ぎ澄ませてしまったのかもしれない。

今や、妻のまなざしは、かつてないほど鋭く、重たい。
俺の隠蔽工作は、まるで蜘蛛の巣のごとく自らをがんじがらめにし、もはや逃れられない運命を予感させていた。

――そして、たぶん近いうちに、俺は静かにこの家を出ていくことになるだろう。

香水の残り香と、爪に残るクリームの感触、玄関の足音を最後に残して。