笑える話:残響する足音――妻の勘と、僕のささやかな逃避行

残響する足音――妻の勘と、僕のささやかな逃避行

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夜の帳がゆっくりと降りていくリビングで、僕はソファに沈み込み、薄暗い天井を見つめていた。
壁の時計が針を刻む音だけが、やけに大きく響く。
外では、春の雨が静かに降っている。
窓越しに感じる湿った空気は、どこか懐かしく、そして、わずかに苦い。

 人は時に、説明のつかない力に怯えるものだ。
たとえば、女の勘。

 友人から聞いた話がある。
ある女性は、夫が玄関からリビングまで歩く足音のリズム――ほんのわずかな遅速、踵の落としどころ――それだけで、浮気を見抜いたという。
信じがたい話だが、奇妙な説得力があった。

 ――その夜から、僕は自分の足音を意識し始めた。

 僕の妻、理沙は、何も言わずに僕を見ていることがある。
静かな視線。
まるで冬の湖面のように澄んでいて、その奥に何が潜んでいるのか、僕には分からない。
でも、ふいに背筋を撫でる冷たい風のように、その視線が心をざわつかせる。

 僕は自分なりの防衛策を講じてきた。

 たとえば、妻からの電話には、どんなに手が空いていても、決して即座に出ない。

 たまに、理由もなく行方をくらます――コンビニと称して、夜風の中を歩くこともある。

 携帯電話は、意味もなく引き出しの奥や枕の下に隠す。

 爪の手入れは、まるで加藤鷹のように丁寧に、念入りに。

 そして、たとえコンビニへ行くだけでも、ポケットに忍ばせた小瓶の香水をひと吹きする。

 それらは、怪しまれぬための小さな儀式。
だが同時に、何かから逃げるための滑稽な踊りでもあった。

 「どうして、そんなに念入りに身だしなみを整えるの?」
 ある夜、理沙がふいにそう尋ねた。

 「いや、特に理由はないよ。
癖みたいなものさ」
 自分でもわかるほど、声がわずかに震えた。

 理沙はそれ以上何も言わず、ただ微笑んだ。
その笑みが、僕には遠い冬の星のように、冷たく、届かないものに見えた。

 僕の策は、果たしてどこまで通用しているのだろう。

 時折、理沙の視線が鋭さを増す。
彼女の勘は、どこまで僕を見抜いているのか。

 毎晩、ベッドに入るたび、僕は考える。

 ――この奇妙な舞踏を続けて、いったい僕はどこへ行き着くのだろうか。

 足音ひとつで全てを見抜かれる世界で、僕は今日も、音楽のリズムを変えながら歩く。

 そして今、雨音が窓を叩く。

 僕の小さな欺瞞の積み重ねは、やがて取り返しのつかない溝を家の中にもたらしていた。

 冷たい手すりに手をかけ、僕は知っている。

 このままでは、まもなく、二人の時間は静かに終わるのだということを――。

 それでも、僕は今日も歩く。

 普段と違うリズムで。

 滑稽なほど慎重に。

 そして、誰にも見破られぬようにと願いながら。
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