朝の光がゆっくりとカーテンの隙間をすり抜け、まだ眠気を引きずる街の片隅を、かすかに金色に染めていた。
わたしは、いつものように古びた喫茶店の裏口を押し開ける。
鼻孔をくすぐるのは、焙煎した豆のほろ苦い香り。
奥の厨房からは、油とパンが焼ける音が混じり合い、朝という名の喧騒が始まっていた。
モーニングタイムは、店の一日で最も激しくも美しい時間だ。
トーストの焦げ目、カップの白磁に映る微かな陽光、常連たちの慎ましい沈黙。
わたしはそのすべてを愛していた──けれど、この朝は、微かな不安が胸をかすめていた。
指先がわずかに震え、エプロンの腰ひもを結び直す手が、いつもより頼りなかった。
四人のマダムたちが、扉のベルの音とともに店内へ滑り込む。
彼女たちは、桜の花びらが舞うように席につき、静かに微笑んでいた。
わたしはコーヒーポットを手に、慎重にカップへと注ぐ。
湯気が立ちのぼり、朝の空気をほのかに温めた。
「ホットコーヒー、お待たせいたしました」
声が、少し上ずっていた。
マダムたちは、そのささやかな緊張に気づいたのか、目を細めて微笑む。
その瞬間、わたしの口から不意に言葉が滑り出た。
「……ごっくりどうぞ」
時間が、ほんの僅か、静止する。
マダムたちの視線が、こちらに集まる。
驚きと困惑、けれどもすぐに、柔らかな笑みが彼女たちの唇を彩った。
間違いではないわ、とでも言うように。
わたしは、恥ずかしさを隠すために、精一杯の笑顔を返した。
まるで自分の失敗を、春の日差しのように包み込んでくれるようだった。
忙しさは続く。
カウンターの奥では、厨房のA君が威勢よく手を動かしている。
わたしは急ぎ足で伝票をつかみ、彼に声をかけた。
「注文入りましたー!」
すると、A君は振り返りながら、勢い余った声で叫ぶ。
「はいどうじょー!」
その途端、彼の足が滑った。
フライパンが宙を舞い、彼自身も床に転げ落ちる。
あっ、と声を飲み込んだ。
厨房の空気がびりびりと震え、騒然とした音の波が店内にまで届く。
突っ込みたい。
けれど、今はそれどころではない。
わたしの内側では、笑いと焦りがせめぎ合い、けれど表情は静かに保つ。
嵐のような忙しさの中、わたしは自分の小さな失敗も、A君の滑稽な転倒も、朝の喧騒のひとつとして受け入れるしかなかった。
コーヒーの苦味が、わたしの胸の奥に、昨夜の眠気や今朝の戸惑いまで溶かしていく。
そうしてまた、新しい一日の幕が上がるのだった。
仕事・学校の話:モーニングタイムの微笑み──喫茶店に揺れる小さな失敗の詩
モーニングタイムの微笑み──喫茶店に揺れる小さな失敗の詩
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