披露宴会場は、六月の湿った夜気を微かに感じさせるホテルの大広間だった。
天井高く吊るされたシャンデリアの光が、無数のグラスやテーブルクロスに複雑な反射を生み、空間全体に金色の暖かい揺らぎをまとわせていた。
軽やかな弦楽四重奏の調べが、時折グラス同士の微かなぶつかり合いと混じり合う。
しかし、その華やかな雰囲気の片隅に、少しずつ、しかし着実に、重く冷たい空気が積み重なりつつあった。
新婦の父親は、紺色のスーツを少し着崩し、頬を仄かに紅潮させて座っていた。
グラスの底にはまだ琥珀色のウイスキーがわずかに残り、彼の手元で指先が落ち着きなくその縁を撫でている。
最初は、彼が口にした「俺の可愛い○○をさらって行った…」という言葉に、テーブルを囲む親族や友人たちは、どこか安心したような、ほっとした笑みを漏らした。
父親の「娘愛」、定型的な冗談――そう思いたかった。
しかし、その声には、笑いと嫉妬、少しの痛み、そしてまだ手放したくないという執着が微かに滲んでいたのかもしれない。
披露宴が進むにつれ、会場の空気は目に見えない重りを吊るされるかのように沈んでいった。
父親の声は、グラスを持つ手と共にわずかに震え、やがて冗談の域を越えていく。
「あいつは初めから怪しいと思っていた!」。
「○○は騙されている」「今はあいつに言い包められているが、正気に戻った時のために部屋はそのままにしてある」。
その一言一句は、静かな空間に鋭く響き、シャンデリアの光さえも一瞬曇らせたようだった。
私の席は友人席。
新郎新婦からはやや離れているが、父親の声は、まるで空気を割くナイフのように、テーブルクロスの上を滑って私の耳にまで届いた。
会場のざわめきが急速に薄れ、誰もが息を潜めるようにしてただ父親の言葉を聞き入っている。
隣の友人は凍りついた笑顔のまま、手元のグラスを持つ手が震えている。
空気は湿って重く、胸の奥で鼓動が自分のものではないかのように不規則に高鳴っていた。
新郎側の親族席に目を向けると、彼らの顔は一様に厳しい陰りを宿していた。
眉間に深く刻まれた皺、唇をきつく結ぶ母親の横顔。
誰もが「何かが破綻しかけている」ことに気付いているが、誰一人として声を発せられずにいた。
司会者は台本を前にして立ち尽くし、用意していたであろう祝辞や場を和ませるジョークが、今では全く役に立たなくなったことを痛感しているようだった。
新婦の表情は、まるで今にも崩れ落ちそうな氷の彫刻のようだった。
彼女は膝の上で指をぎゅっと組み、肩を小刻みに震わせてうつむいている。
涙が今にも零れそうな瞳は、遠い記憶か、それとも幼い頃の父との思い出を必死に思い出そうとしているかのようだった。
新婦の唇は青白く、絶えず息を呑み込み、時折小さく震えていた。
その姿に、私の胸にも切なさとやりきれなさが波のように押し寄せてくる。
会場全体が停滞した時間に包まれるなか、ふいに新郎が椅子を引いて立ち上がった。
その動作は静かだが、どこか決意のようなものが全身から滲み出ている。
彼は真っ直ぐに新婦の父親を見据え、数秒間の沈黙が会場を満たした。
誰もが、次の一言を息を止めて待っている。
新郎の声は澄んでいて、だがどこか震えるような、覚悟を決めた人間だけが持つ静かな強さが宿っていた。
「お義父さんが○○さんを大切に育ててきたからこそ、僕を憎らしく思うんですよね」と新郎は低く、しかしはっきりと語り始めた。
その言葉には、ただの機転や場の取り繕いではない、心の奥底から絞り出した真実があった。
「今日、僕は○○さんをさらっていく泥棒です。
一生返しません。
でも、一生大切にしますからね」
その瞬間、会場の空気がほんの少しだけ変わった。
新婦は顔を両手で覆い、大粒の涙を止められなくなった。
彼女の嗚咽は、静まり返った会場に小さな波紋のように広がっていく。
新婦の父親は、ふと視線を落とし、長い沈黙の後、目元を濡らしながら静かに涙を流し始めた。
彼の肩が小さく震え、これまでの頑なな態度の裏にあった愛情と寂しさが、ようやく素直な涙となって溢れ出したのだった。
誰もが言葉を失い、ただその親子の涙に心を打たれていた。
シャンデリアの光が涙を受けた頬にきらめき、夜の静けさの中に、かすかな赦しと和解の気配が芽生え始めていた。
しかし、その場に唯一、表情を緩めなかった人物がいた。
新郎の母親だ。
彼女は最後まで厳しいまなざしを新婦の父親に向けていた。
いまだ解けない憤りと、息子を思う母親としての誇りとが、彼女の胸のうちで静かにせめぎ合っていたのだろう。
会場の窓の外では、雨上がりの夜風が街路樹の葉を揺らし、どこか遠い昔から続く「家族」という難解な物語の一幕をそっと見守っているようだった。
祝宴の余韻と、胸の奥に残る複雑な感情が、いつまでも会場に漂い続けていた。
修羅場な話:涙と沈黙が交錯する披露宴――父と新郎、愛と葛藤の一夜の記憶
涙と沈黙が交錯する披露宴――父と新郎、愛と葛藤の一夜の記憶
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