春の宵、かすかな桜の香りが窓辺を流れていた。
披露宴会場のシャンデリアは、天井から滴るような光を落とし、テーブルクロスの白さに、淡い夢の名残りを描き出していた。
グラスを満たすワインの琥珀色は、どこか遠い日の夕暮れを思わせる。
私は新婦の幼なじみとして、友人席の末端に座っていた。
背筋を伸ばし、時折、隣の人と微笑を交わしつつも、胸の奥には落ち着かぬ波が立っていた。
幸せな空気の中に、どこか不穏な陰が潜んでいる。
そう感じずにはいられなかった。
やがて、スピーチの時間が巡ってきた。
新婦の父親が、ゆっくりと立ち上がる。
初めは、誰もが柔らかな期待でその口元を見つめていた。
「俺の可愛い娘をさらって行った……」
場が一瞬和み、あちこちで小さな笑いが起きる。
だが、その声音は微かに震えていた。
私はふと、父親の握るグラスが、彼自身の心の揺れを映していることに気づいた。
式が進むにつれ、父親の言葉は変わっていく。
「最初から、あいつは怪しいと思っていた……」
その声は、会場の隅々まで響き渡った。
ワインの香りの奥に、アルコールの苦みが満ちていく。
「娘は、騙されているんだ。
今は言い包められているが、正気に戻ったときのために、部屋はそのままにしてある」
冗談の皮を被った棘のある言葉が、空気を切り裂いた。
私の手の中のグラスが、知らぬ間に汗ばんでいる。
新婦は俯き、長い睫毛が震えていた。
その横顔は、今にも涙に崩れそうなガラス細工のようだった。
新郎側の親族たちの表情は、次第に硬くなっていく。
会場全体が、目に見えない薄氷の上に立たされているようだった。
司会者は困惑し、言葉を探しあぐねていた。
誰もが息をひそめ、次の瞬間を待っていた。
そのときだった。
新郎が、静かに椅子を押しのけて立ち上がる。
整えた髪の隙間から、強い意志が滲んでいた。
彼は一度だけ深呼吸をし、父親の前に進み出る。
「お義父さんが、○○さんを大切に育ててこられたからこそ、僕のことが憎らしく思えるんですよね」
一瞬、時間が止まったようだった。
新郎の声は、決して大きくはなかったが、会場の隅々まで届いた。
「今日、僕は○○さんをさらっていく泥棒です。
一生返しません。
でも、一生、大切にします」
その言葉が空気を変えた。
新婦は、溢れる涙を隠そうともせず、嗚咽を押し殺していた。
父親の瞳にも、静かな涙が浮かんでいた。
まるで、長い冬の終わりに訪れる、最初の春の涙のように。
会場には、奇妙な静けさが訪れた。
誰もが呼吸を忘れたかのような一瞬のあと、ぱらぱらと拍手が広がっていった。
けれど、私はふと、新郎の母親の席に目をやった。
彼女の唇は固く結ばれ、その瞳には、消えぬ怒りの炎が静かに揺れていた。
祝宴の夜。
涙は、誰にも気づかれぬまま、静かに降り積もっていった。
修羅場な話:祝宴の夜、涙は静かに降り積もる
祝宴の夜、涙は静かに降り積もる
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