1. はじめに―これは「禁忌」と「未知」をめぐる物語である
本作は、幼き兄弟が田舎の非日常空間で遭遇した「白い物体=くねくね」をめぐる恐怖体験を通じて、「人間が見てはならないもの」「知ってはならないもの」に対する根源的態度を描いている。
表層的には怪談でありながら、深層には心理的・社会的・哲学的な多層の主題が潜む。
2. 表層:出来事の整理
物語の軸は、都会育ちの兄弟が祖母の田舎で「くねくね」と形容される異様な白い物体に遭遇したことにある。
兄は接近的にそれを観察し、精神に異常を来す。
一方、弟は遠巻きに眺めるにとどまる。
祖父母は「見るな」と警告し、兄は最終的に狂気に陥る。
この一連の現象は「見てはならぬもの」に接近した者の変容を鋭く描写している。
3. 中層:心理的・社会的分析
(1)無意識的動機と防衛機制
兄弟の田舎での奔放な行動は、都会的抑圧からの解放衝動の発露と読めるが、「くねくね」遭遇により、未知との対峙が一転して心理的崩壊を招く。
兄が双眼鏡で真相を直視するのに対し、弟は「遠くから眺める」だけに留まり、無意識の防衛機制(フロイト的には抑圧や否認)が作動している。
祖父母の警告は共同体的タブーの顕現であり、家族システム内の秩序維持装置として機能する。
(2)世代・共同体と禁忌
「見てはならぬもの」という口伝的タブーは、田舎共同体の暗黙知、いわば“外部”への防波堤である。
祖父母の反応と、兄弟の都市性との断絶は、現代社会における伝統と近代性の葛藤、世代間の価値観衝突を象徴する。
4. 深層:哲学的・象徴的読解
(1)実存的選択と責任
兄は「見る」という選択を能動的に行い、その結果、自己のアイデンティティが崩壊する。
ここには、ハイデガー的な「世界への投企」や、サルトル的な「自由の重圧」が見て取れる。
未知への接近は自由意志の証左であると同時に、不可逆な責任を伴う。
(2)「くねくね」のメタファー
「くねくね」は明確な実体を持たない“あいまいな恐怖”=アブジェクト(ジュリア・クリステヴァの用語で、境界を侵犯する不気味さ)の象徴であり、理性と狂気、日常と非日常の境界を揺さぶる存在である。
これは神話学的に「見てはならぬ神聖」「タブー」の元型とも連動する。
(3)倫理的ジレンマと価値観の相対性
祖父母の「見てはならん」という道徳律は共同体維持のための規範であるが、現代的価値観では“知る権利”や“好奇心”とのせめぎ合いが生じる。
この相対化が、兄弟の悲劇の源泉となる。
5. 統合:総合的な視点
本作は、「見る/見ない」「知る/知らない」という二項対立を通じて、人間存在の根源的不安と共同体の自己防衛、実存的選択の重みを交錯させている。
兄弟の行動は、合理性や進歩主義を信奉する現代的主体が、伝統社会の“暗黙の知”に直面したときの脆弱さを物語る。
加えて「くねくね」そのものの曖昧さが、現実の“名づけえぬ恐怖”の普遍性を浮き彫りにする。
6. 結論―普遍的テーマへの昇華
「くねくね」の物語は、単なる怪談の枠を越え、「人間が理解しえぬもの」「越えてはならぬ境界」の寓話である。
知への欲望、禁忌の力、共同体の防衛本能、個の実存的自由と責任。
これらが複雑に絡み合い、私たち自身が日常のなかで無意識に避けている“くねくね”への態度を再考させる。
言い換えれば、この物語は「見てはならないもの」を前にしたとき、人間はいかに振る舞うべきか、という永遠の問いを投げかけているのである。
怖い話:「くねくね」に見る“見てはならぬもの”:無意識、共同体、実存の境界をめぐる分析
「くねくね」に見る“見てはならぬもの”:無意識、共同体、実存の境界をめぐる分析
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