夏の盛り、ひぐらしの哀しい声が遠くから微かに聞こえてくる、そんな濃密な午後だった。
僕と兄は、滅多に訪れることのない秋田の祖母の家へ、年に一度のお盆に里帰りしていた。
都会の高層ビルやざわめきとはまるで違う、空気の厚みそのものが違って感じられる田舎の午後。
家の縁側には、祖母が丁寧に拭いたガラス戸越しに、稲穂の波が金色にきらめいていた。
畳の匂い、少し湿った木の感触、蝉の鳴き声が時折、風に乗って耳に届く。
僕たちは、祖母の家に到着するや否や、畳に放り出した荷物も気にせず、外へと駆け出した。
足の裏に土の温度が伝わる。
無数の田んぼがつらなり、どこまでも続く緑。
遠くからは、トンボやカエルの鳴き声が小さく重なり合い、風に揺れる稲の葉が擦れ合う音が微かに耳をくすぐる。
都会では決して嗅ぐことのない、濃い土の匂いと、何か甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。
兄と僕は、裸足ではしゃぎながら、小さな用水路を飛び越え、案山子がぽつんと立つ田んぼのあぜ道を駆け回った。
太陽は高く、肌をじりじりと焼き付けるけれど、時折吹き抜ける風が汗ばんだ肌をやさしく撫で、子供心にこの場所だけは時間がゆっくり流れているように思えた。
昼も過ぎたころ、不意に空気が変わった。
風がぴたりと止み、田んぼの上に沈黙が降りた。
まるで見えない手で空間ごと包み込まれたような、重たい静けさだ。
耳鳴りがするほどの無音。
代わりに、どこか遠くから生ぬるい風がふっと流れ込んできた。
その風は心地よいというより、むしろ肌にまとわりつくような妙な湿気を含んでいて、僕は身体の奥に不快なざわめきを感じた。
「なんでこんな暖かい風が……」思わず口に出す。
声は妙に平坦で、自分のものではないように響いた。
僕の横で兄は、口を真一文字に結び、じっと案山子の方を見つめている。
彼の表情は、いつもの陽気なものから、どこか遠くを凝視するような固さに変わっていた。
兄の視線を追いかけると、案山子のさらに奥、田んぼの境目の向こうに、何かが見えた。
「……あの案山子がどうしたの?」僕は兄に問いかける。
けれど兄は、ほんの一瞬まぶたを震わせただけで、答えずに首を振る。
「いや、その向こうだ」低く、かすれた声が返ってきた。
その声には、何かしらの恐れと躊躇がにじんでいた。
僕は目を凝らす。
日差しが強く、あぜ道の先は熱気で揺らめいている。
だがその向こう、田の緑の中、ひときわ不自然な白いものが、ひらひらと揺れながら立っていた。
遠目には人間ほどの大きさに見える。
けれど人影とは違う。
腕や足といった輪郭が曖昧で、白い布のようなものがねじれ、くねくねと動いている。
風はない。
けれど、まるで水中を流れるかのように、柔らかく、しかしどこか不気味な律動を持ち、しなやかに体をくねらせている。
「新種の案山子じゃない?風で動いてるんだよ!」僕は半ば無理やり、自分の中の不安を押し殺すように、そう解釈しようとした。
でも、風は完全に止まっている。
兄の顔からは、表情がすっかり消えていた。
彼の瞳は、何か理解を超えたものを拒絶するかのように、冷たく光っていた。
その白いものは、周囲の空気ごと歪めているように思えた。
木々の葉がざわつくこともなく、鳥の声も途絶えている。
ただ、くねくねとしたその動きだけが、時間の流れをねじ曲げているような気がした。
兄は、唇を噛みしめて家に駆け戻った。
僕は一瞬、兄の後ろ姿に幼いころ見せたことのない恐怖の影を見た。
やがて、兄は双眼鏡を手に戻ってきた。
その手は小刻みに震えていた。
「俺が最初に見るから、ちょっと待てよ!」と兄は強がるように言い、双眼鏡を目に当てた。
だが、次の瞬間、兄の顔から血の気が引き、瞳が見開かれる。
頬に冷や汗がつたう。
唇がわななき、双眼鏡を持つ手が力を失う。
カチリ、と乾いた音を立てて、双眼鏡があぜ道に落ちた。
「何だったの?」僕は、喉がひりつくような恐怖をこらえながら、兄に声をかける。
兄の肩は小刻みに震え、目はどこか焦点が合わない。
次の瞬間、兄の口から漏れたのは、兄のものではないような、かすれた声だった。
「わカらナいホうガいイ……」
その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。
心臓がドクドクと速まる。
足元の泥の感触が急に重く、ぬるりとまとわりついてくる。
空気はますます重く、息を吸うたびに、体の奥に何か異物が入り込むような不快さを覚えた。
僕は、落ちた双眼鏡を拾うことができなかった。
代わりに、ただ遠くから白い物体を――その不気味な「くねくね」を――見つめ続けていた。
奇妙で、現実感がない。
それでも、なぜかその時、恐怖そのものは感じなかった。
ただ、頭の奥で、何かがきしむような音がしていた。
その時、祖父が家から駆けてきた。
老いた足で、必死にこちらへ向かってくる。
息が切れ、顔は青ざめている。
祖父は僕と兄の間に割って入り、僕の肩を強く掴んだ。
「あの白い物体を見てはならん!」祖父の声は、これまで聞いたことがないほど切迫していた。
声が震え、言葉の端に恐怖と悲しみが滲んでいた。
僕がまだ双眼鏡を覗いていないことに気づくと、祖父はその場に崩れ落ち、ぼろぼろと涙を流した。
祖父の手は、僕の腕を離さなかった。
その手の震えと、押し殺した嗚咽が、僕の心に深く刻まれた。
家に戻ると、兄の様子が明らかにおかしくなっていた。
彼は、まるで糸が切れた人形のように、意味もなく笑い続けている。
身体を大きくくねらせ、不規則な動きで畳の上を揺れていた。
その姿は、あの田んぼの白い物体そのものだった。
笑い声は、どこか遠くから響いてきているようで、兄の顔には涙が伝っていた。
僕の胸は強く締め付けられ、呼吸が浅くなる。
兄を呼ぼうとするが、声が出ない。
ただ、兄の目だけが、どこか遠く、僕には見えない場所を見つめていた。
帰る日、祖母がぽつりと、「兄はここに置いておいた方がいい」と言った。
祖母の顔には、深い悲しみと諦めが浮かんでいた。
僕は泣き叫び、兄にすがりつこうとしたが、大人たちに引き離された。
車の窓越しに、遠ざかる祖母の家と田んぼが見える。
兄が一瞬、手を振ったように見えた。
僕は涙に濡れたまま、双眼鏡を手に取り、もう一度兄を探した。
レンズ越しに見えた兄の顔には、押し殺した悲しみがあふれ、涙が頬を伝っていた。
「いつか……元に戻るよね……」
祈るような気持ちで、僕は田んぼを見晴らした。
夏の終わりの空は、どこまでも高く、雲がゆっくり流れている。
風は再び吹き付け、稲穂がざわめき始めた。
だが、その時だった。
僕は見てはいけないものを、間近で、確かに見てしまった。
田んぼの向こう、あの場所に、くねくねと動く白い影が――異界の存在が、今も静かにそこにいた。
『くねくね』
その記憶は、今も僕の深層に巣食っている。
怖い話:夏の秋田、祖母の家で遭遇した「くねくね」と田園の静寂に滲む異界の記憶
夏の秋田、祖母の家で遭遇した「くねくね」と田園の静寂に滲む異界の記憶
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