怖い話:田んぼの白い影――祖母の村で「くねくね」を見た夏

田んぼの白い影――祖母の村で「くねくね」を見た夏

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盆の入り、秋田の朝は淡い霧に包まれていた。
僕は父の車の後部座席で眠たげに揺られながら、窓の外に広がる田園風景を眺めていた。
遠くの山々は霞み、稲の海は風に波立っている。
幼い僕にとって、祖母の家へ向かうこの道は、都会の喧騒から切り離された異国のような場所だった。


 祖母の家は、古い瓦屋根と黒ずんだ木壁に囲まれていた。
縁側に腰掛けていた祖父が、僕たち兄弟を見つけて微笑む。
夏草の匂いが鼻をくすぐり、蝉の声が遠くでけたたましく鳴いていた。
兄の手を引いて外に飛び出すと、足元の土は柔らかく、ぬかるみに小さな足跡が残った。
田んぼの畦道を駆け、見慣れぬ草花や虫を追いかけた。
空気は澄み切っていて、肺の奥が洗われる気がした。


 昼になり、太陽が真上に昇ると、不意に風が止んだ。
それまで田を渡っていた涼やかな風が消え、代わりに湿った生温かい空気が僕たちを包み込んだ。
汗ばむ額をぬぐいながら、僕はつぶやいた。


「どうして、こんなに風があったかいんだろう」

 兄は返事をしなかった。
彼は田んぼの向こう、一本の案山子をじっと見つめている。
その視線の先を追って、僕も目を凝らした。


「あの案山子、どうしたの?」

 兄は小さく首を振る。
「……いや、その向こう」

 言われた方角を見つめると、稲の波間に、不自然な白いものがあった。
まるで人の形をした布きれが、風もないのに、くねくねと揺れ動いている。


 人間の影ではなかった。
あれは何だろう。


「新しい案山子かな。
風に揺れてるんだよ」僕は無邪気に言ったが、兄は微妙に顔色を変え、沈黙した。


 風は止まったまま、それなのに白い何かは絶え間なくうねり続けていた。
僕の胸の奥に、小さな違和感が芽生え始める。


 やがて兄は走って家に戻り、押入れから双眼鏡を引っ張り出してきた。
「俺が最初に見るから、待って」意気込んで覗き込んだ直後、兄の顔から血の気が引いた。
額には玉のような汗が浮かび、両手が震えている。


「な、何だったの?」僕は恐る恐る聞いた。


 兄は答えた。
しかし、その声は兄のものではなかった。


「わカらナいホうガいイ……」

 ひび割れたような、冷たい声が耳を刺す。


 僕は双眼鏡を拾う勇気を持てなかった。
ただ、遠目に白い物体が揺れるのを凝視するしかなかった。
不思議なことに、強い恐怖は感じなかった。
ただ、現実感が少しずつ薄れていくような、夢の中に引きずり込まれる感覚だけがあった。


 そのとき、背後から祖父が駆けてきた。
彼は真剣な表情で僕の肩を掴み、「あの白いものを見てはならん!」と叫んだ。
祖父の声は、田んぼの静寂を切り裂くように響いた。
その時、僕がまだ双眼鏡を覗いていないと知ると、祖父はその場に崩れ落ち、押し殺したように泣いた――子供の前で涙を見せることなど決してなかった祖父が。


 家に戻ると、兄は縁側で膝を抱え、奇妙な笑い声を上げていた。
彼の身体は、あの白いものと同じように、くねくねと揺れていた。
兄の瞳はどこか遠くを見ていて、僕の呼びかけにも応えなかった。


 帰郷の日の朝、祖母は静かに言った。
「お兄ちゃんは、しばらくここにいた方がいい」その声には、決して逆らえない重みがあった。
僕は泣きながら父の腕にしがみついた。
車が田舎道を離れるとき、兄が一瞬だけ手を振ったように見えた。
僕は涙を拭い、震える手で双眼鏡をのぞいた。
向こうで兄が泣いていた。


 ――いつか、元に戻るのだろうか。


 その問いだけが胸に残り、僕はしばらく田んぼを見つめていた。


 その時だった。
ふと、視線の端に、あの白いものがゆらめいた。


 見てはならないものを、見てしまった。
その瞬間、冷たい風が背筋をなぞり、世界の色が一瞬だけ反転したように感じた。


 あの夏、僕は「くねくね」と名付けられたものの正体を、知ってしまったのかもしれない。
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