あれはもう、遠い霧に包まれたような昔のことだ。
季節は晩秋に差し掛かっていたと思う。
薄曇りの午後、重たい雲が窓の外を流れていた。
結婚してから二度目の冬を目前にして、僕たち夫婦は小さな命を授かった。
淡い希望が日々の端々を照らし、それまで味わったことのない幸福感が、二人の間に静かに満ちていた。
けれどその幸せは、思いがけない形で断ち切られた。
検診のために訪れた産婦人科の、消毒液の混じった独特の匂いが鼻を突く室内で、医師の口から低い声で「稽留流産です」と告げられた瞬間、世界が急に色を失ったように感じた。
妻の手が僕の腕にしがみつく。
その手のひらは、汗でじっとりと湿っていた。
僕は彼女の肩を抱きしめながら、医師の説明に耳を傾けることしかできなかった。
「母胎に居続けると危険があるため、手術が必要です」——その言葉を聞いたとき、胸の奥が締め付けられるような痛みが走った。
医師は淡々と「人工中絶手術」と呼んだ。
耳に残るその語感が、僕たちの選択肢を無情にも狭めていく。
納得はできなかったが、目の前の現実を拒むこともできなかった。
書類にサインする手が、かすかに震えていたことを、今でもはっきり覚えている。
手術の日、病院の廊下は異様に静かだった。
人工的な明かりが天井から降り注ぎ、白く塗られた壁がやけに冷たく感じられた。
看護師の足音や、遠くで赤ん坊が泣く声がかすかに響く。
手術室の扉が閉じられた瞬間、僕は待合室の椅子に沈み込み、ただ目を閉じて妻の無事を祈った。
唇は乾き、喉が強く渇いていた。
心臓が、異常なほど大きな音で鼓動を打っていた。
やがて手術が終わり、看護師が「無事に終わりました」と声をかけてくれた。
安堵と喪失が複雑に絡み合い、言葉にできない感情が胸を満たす。
妻はベッドに横たわり、まだ麻酔の残るぼんやりした目で天井を見つめていた。
病室の窓からは、曇天の下に灰色の町並みがぼんやりと広がっている。
暖房が効いているはずなのに、空気がどこか重く、肌寒さが肌にまとわりつくようだった。
小さな産婦人科の病室は、出産後の母親たちと同じ空間だった。
ベッドごとに薄いカーテンが引かれていたが、完全に仕切るには頼りなく、人の気配や声が簡単に伝わってくる。
隣のベッドでは、赤ちゃんを抱く母親と、嬉しそうな父親がいた。
新生児のかすかなミルクの匂いが、カーテン越しに漂ってくる。
それが、僕たちの喪失感を一層鮮明に浮かび上がらせた。
その父親は、何度も何度も、「うちの子よりも、横にいた赤ちゃんの方が可愛かった」と大きな声で話していた。
その言葉は、薄いカーテンを簡単に突き抜けて、僕たちの耳と心に刺さった。
きっと善意で褒めてくれたのだろう。
だが、僕たちの心には、何か重い鉛のようなものが沈み込んでいた。
妻の顔は、血の気が引き、唇がかすかに震えていた。
僕も必死に平静を保とうとしたが、内心は「頼むから静かにしてくれ」と叫びたい衝動に駆られていた。
息を潜めて、ただ時間が過ぎるのを待つしかなかった。
病室の空気は、沈黙と雑音が不規則に交錯していた。
遠くで赤ん坊が短く泣き、その後にしんとした静寂が訪れる。
その静けさが、逆に僕たちの心の叫びを際立たせていた。
妻の手を握ると、指先が冷たく、かすかに震えていた。
僕の中にも、どうしようもない無力感と、言葉にできない憤りが渦巻いていた。
数日が過ぎ、やっと看護師から「そろそろ退院できますよ」と声をかけられた。
その瞬間、僕はほっとした。
ようやくこの重苦しい空間から抜け出せる——そんな淡い救いの気持ちがよぎった。
僕はベッドの傍らで、静かに「じゃあ、帰ろうか」と妻に声をかけた。
彼女はゆっくりと体を起こし、涙の跡がわずかに残る目で僕を見た。
その時だった。
隣の父親が、驚いたように「え?帰るんですか?産後なのに入院しなくていいんですか?」と尋ねてきた。
その声は無邪気で、悪意など微塵もなかった。
だが、その無垢さが、僕たちの傷を鋭く抉る。
「うちは途中でダメだったんです。
奥さんとお子さんを大事にして下さいね」——自分でも驚くほど冷静に、静かな声でそう答えた。
相手の表情が一瞬凍りつき、会話が途切れた。
その沈黙は、病室全体を包み込むほど重かった。
僕たちは、荷物をまとめ、廊下をゆっくりと歩いた。
病院の外に出ると、冷たい風が頬を打ち、曇り空の下で街の色彩がぼやけて見えた。
妻の肩を支えながら、二人で家路についた。
心の中にぽっかりと空いた穴が、冷たい風とともに広がっていくようだった。
その日、隣の夫婦は、きっと自分たちの話が僕たちにどんな影響を与えていたか、初めて気づいたのかもしれない。
僕たちが去った後、彼らの方がむしろ修羅場だったのではないかと、今になって思う。
あの時の沈黙は、僕たちの悲しみを超えて、彼らにも何かを深く刻みつけていたのだろう。
時は流れ、僕たちは再び二人の子供を授かった。
最初の喪失を忘れることはできないが、新しい命の温もりが、少しずつ心の傷を癒してくれた。
二人の子は、今も元気に育ち、時折、ふとした瞬間に、あの日のことを思い出す。
曇り空の下、白い病室で感じた冷たさと、そこから歩み出した僕たちの新しい日々——それらすべてが、今の家族の温もりにつながっているのだと、しみじみ思う。
切ない話:産婦人科の白い静寂と、喪失の深い夜を越えて——夫婦がすれ違う瞬間の全景
産婦人科の白い静寂と、喪失の深い夜を越えて——夫婦がすれ違う瞬間の全景
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