「うちは途中でダメだったんです。
奥さんとお子さんを大事にして下さいね。
」
その一言を残して、僕たちは病室を後にした。
隣の夫婦のご主人は驚いたような顔をして、しばらく沈黙した。
その後、彼らがどんな気持ちだったのか、今となっては想像するしかない。
だが、僕たちが悲しみの底にいたあの時間、実は彼らにとっても、思いがけない修羅場の始まりだったのかもしれない。
話は数分前に遡る。
妻に退院許可が出たとき、僕は小さな声で「じゃ、帰ろうか」と伝えた。
隣のご主人は、まさか僕たちが産後すぐに帰るとは思っていなかったのだろう。
「え?帰るんですか?産後なのに入院しないんですか?」と、何も知らない無垢な問いかけが僕の胸を刺した。
その直前まで、病室には温度差のある会話が響いていた。
隣のご主人は「うちの子よりも、横に居た赤ちゃんの方が可愛かった」と何度も話していた。
きっと、亡くなった僕たちの子供を褒めるつもりだったのだろう。
しかし、僕も妻も、喪失の痛みで会話もできず、ただ布団に沈んでいた。
彼らの幸せな会話が続くたびに、「うるさい!頼むから黙ってくれ!」と心の中で叫んでいた。
時を戻そう。
僕たちは結婚2年目に子供を授かった。
しかし、赤ん坊は稽留流産だった。
自分たちの手の中に来ることなく、母胎に残ったまま、「人工中絶手術」という納得できない名前の処置を受けるしかなかった。
手術後、妻はしばらく安静が必要で、僕は病室で付き添い続けた。
隣は、出産を終えたばかりの夫婦。
明暗が分かれた空間だった。
思えば、僕たちが帰った後、本当の修羅場は隣の夫婦に訪れたのかもしれない。
無邪気に交わしていた言葉が、どれほどの重みを持っていたか知ったとき、彼らは何を思っただろう。
そして今。
二人の子供に恵まれ、どちらも健康に育ってくれている。
あの時の悲しみも、今では家族の歴史の一部だ。
だからこそ、あの日静まり返った病室の空気を、僕は忘れることができない。
切ない話:「隣の夫婦が静かになった、その理由」
「隣の夫婦が静かになった、その理由」
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