あの日、春はまだ遠く、窓の外には乾いた風が吹いていた。
灰色の雲が薄く垂れこめ、小さな産婦人科の病室には、どこか薄い膜のような静けさが漂っていた。
結婚して二度目の春を迎えたばかりだった。
妻のお腹に新しい命が宿ったと知ったとき、世界はほんの少しだけ柔らかく見えた。
けれどその光は、思いがけなく早く、静かに消えてしまった。
稽留流産——医師が口にした冷たい言葉は、まるで雪解けを待てずに凍てつく川の底へ沈んでいく小石のように、私たちの胸の奥で鈍く響いた。
「人工中絶手術」という名は、どこか現実のものとは思えなかった。
名付けることすら叶わなかった赤ん坊は、ただ静かに母の胎内にとどまり、やがて奪われていった。
医学という理(ことわり)に従うしかなかった。
手術の日の朝、私は冷たい水で顔を洗いながら、自分の鼓動が遠くの雷鳴のように響いているのを感じていた。
手術が終わって、妻は力なく病室の白いベッドに横たわっていた。
私はその傍らに座り、何もできずにただ彼女の指先に手を添えていた。
その部屋には、もう一組の夫婦がいた。
カーテンの隙間から、産後の母親が柔らかく赤ん坊を抱いているのが見えた。
赤子の泣き声が細く、しかし確かに部屋を満たしていた。
隣の夫は、何度も何度も口にした。
「うちの子より、隣のベッドにいた赤ちゃんのほうが可愛かったよな」
きっと、私たちの赤ん坊のことを指していたのだろう。
彼の声は、無邪気な善意で満ちていた。
だが、その言葉が剃刀のように私たちの傷口をなぞっていく。
妻は枕に顔をうずめ、私は拳を強く握りしめた。
心の奥で、叫びが渦巻いた——頼む、静かにしてくれ。
どうか、この沈黙を壊さないでくれ。
窓の外では、夕暮れの茜色がじわじわと病室の壁に染みていた。
どこか遠くで誰かが笑い、赤ん坊の泣き声が、波のように寄せては返す。
時間が止まったかのような午後だった。
やがて、看護師が帰宅許可を告げに来た。
白衣の袖口が、春の風に舞う桜の花びらのように見えた。
「じゃあ、帰ろうか」
私は静かに妻の肩に手を置いた。
そのとき、隣の夫が不思議そうに顔を上げた。
「え?もう帰るんですか?産後なのに入院しないんですか?」
私は薄く微笑みながら、声を絞り出した。
「うちは……途中で駄目だったんです。
どうか、奥さんとお子さんを大事になさってください」
その瞬間、彼の顔に戸惑いと気まずさが走った。
私はそれ以上何も言わず、静かに病室を後にした。
冷たい手すりが、現実の重みを私の掌に伝えてきた。
妻の肩は小さく震えていたが、私はただ黙ってその背中を支えた。
外に出ると、夕焼けが街全体を静かに染めていた。
遠くで電車の警笛が、寂しげな獣の遠吠えのように響いた。
あの日、あの夫婦が喜びに満ちた声で語らう時間が、私たちにとっての修羅場だった。
しかし今になって思えば、私たちが去った後の病室で、彼らの心にもまた、波紋のような痛みが静かに広がったのかもしれない。
時は巡り、季節は幾度も移り変わった。
やがて二人の子どもが私たちのもとにやってきてくれた。
小さな手、小さなぬくもり。
初夏の風のように、二人は健やかに育っていった。
それでも、病室のあの午後の静けさ——消えた小さな命と、言葉にならなかった悲しみの記憶は、今も胸の奥で、そっと波紋を描き続けている。
切ない話:静かな病室、沈黙の隣人たち——消えた光とささやきの記憶
静かな病室、沈黙の隣人たち——消えた光とささやきの記憶
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