午前十時。
薄曇りの空から差し込む弱い光がリビングのカーテンレース越しに滲み、私の頬をうっすらと照らしていた。
静かな部屋には洗い立てのリネンの香りが漂い、窓ガラスの外ではかすかな鳥のさえずりが聞こえる。
そんな穏やかな時間に、不意に鳴るインターホンの音だけが空気を切り裂く。
私は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
足元のフローリングが冷たく、指先にはかすかな汗が滲む。
ドアを開けると、そこには夫の母——私にとっては「トメ」と呼ばれる存在が立っていた。
彼女の瞳はいつも冷静で、どこか計算された微笑を浮かべている。
その視線には、私の粗を探す鋭さと、決して揺るがない自信が宿っていた。
「まったく、あなたは……」
トメの声は低く、抑揚はないが、ひとつひとつの言葉が私の胸の奥に刺さる。
彼女が長男嫁には柔らかな笑顔で接し、温かな言葉を投げかける場面を何度も見てきた。
しかし、私——次男嫁に対してだけは、まるで違う人物のように厳しくなる。
その理由を何度も考えた。
私の家事の仕方が気に入らないのか。
生い立ちや学歴の違いか。
あるいは、私の存在そのものが彼女にとって不要なのか。
その答えは決して見つからないまま、トメは私のキッチンにずかずかと入り込み、冷蔵庫の中身や流し台の水跡、洗濯物の干し方まで逐一指摘してくる。
「ここ、もっとこうしないとね」
彼女の白く細い指先がシンクの水滴をなぞる。
その動きは、まるで小さな欠点を拡大鏡で覗き込むように執拗だ。
私はその度に、背筋が粟立つような寒気と、逃げ出したくなる衝動を覚える。
声に出さずとも、心の中で何度も「どうして私だけ」と叫んでいた。
夫はそんな私の様子を見かねて、何度もトメに抗議してくれた。
ある日の夕暮れ、部屋の隅で彼が低い声で「もうやめてくれ」と訴える姿が、今も脳裏に焼き付いている。
けれどトメは、動じることなく、「私は間違っていないのよ」と静かに断言する。
それは彼女の信念であり、決して崩れることのない壁だった。
私たち夫婦の間には、次第に重たい沈黙が漂うようになった。
自宅の空気は、日ごとに粘りつくような緊張感を孕み、夜になると私は眠れぬまま天井を見つめた。
夫と何度も相談し、「このままでは心が壊れてしまう」と意を決して、私たちはそっと引っ越すことにした。
新しい住まいは、古びた木造アパートの二階。
窓から差し込む光は柔らかで、誰の視線も届かない場所だった。
引っ越しの知らせが義兄嫁に伝わると、彼女はすぐさま私に連絡をしてきた。
彼女の声は明るく、どこか無邪気な響きを含んでいた。
義兄嫁は、まだトメの「本性」に触れたことがないのだろう。
「考えすぎじゃない?お義母さん、あなたのためにやってくれてるのよ」
その言葉は、私の心をさらに冷やした。
電話の向こうからは、義兄嫁の笑い声や、カップを置く小さな音が聞こえる。
彼女の家の空気は、私の暮らしとはまるで別世界のようだった。
「損な性格ね。
もう少し素直になれば?」
その一言に、私は言葉を失った。
口の中が急に乾き、唇が強張る。
私は、彼女とも距離を置くことに決めた。
自分を守るために——。
やがて、新しい生活にも静かな平穏が訪れた。
朝、窓を開けると、微かな土の匂いと、どこか懐かしい木の香りが部屋に満ちる。
夫と二人で囲む食卓には、トメの影はもうない。
息を吸うたび、ようやく自分自身の存在を確かめられる日々が始まった。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
義兄嫁が第一子を妊娠したという知らせが入ったのだ。
その瞬間、私の脳裏には、あのトメの冷たい眼差しと厳しい声が蘇った。
やがて、トメは義兄宅へと足繁く通うようになった。
その足取りは、私の家に来ていた頃と同じ、規則的で容赦がなかった。
義兄宅は新築の一戸建てで、白い壁と広いリビングが自慢らしいが、そこにもトメの影はすぐに濃く落ちた。
朝から夕方まで、トメは家事の隅々まで目を光らせ、義兄嫁の振る舞いを逐一指摘した。
彼女の声は、時に細く、時に太く、部屋中に響き渡る。
静かな午後、カーテンの隙間から差し込む光の中で、義兄嫁は黙ってうつむき、その指先が震えていたという。
赤ん坊の性別が判明すると、トメは「女の子ね」と言い切り、次は「男の子も産まなきゃ」と催促し始めた。
名付けについても勝手に案を出し、さらには将来どの幼稚園に通わせるべきか、どんな習い事をさせるべきかまで口を挟むようになった。
トメの声が響くたび、義兄宅の空気が重く、湿り気を帯びていく。
出産予定日が近づくと、トメは「私が立ち会う」と意気込んだが、病院側が毅然と「ご家族以外はご遠慮ください」と遮った。
トメは不満げに口を尖らせ、しかし諦めきれず、今度はトメ友や親戚を引き連れ、義兄宅で長居する日々が始まった。
ある日、私は義兄宅を訪ねた。
玄関をくぐると、微かに漂う新しい家の木の香りと、どこか重苦しい空気が鼻を突く。
リビングでは、義兄嫁が薄い笑顔を浮かべながら、トメの愚痴を静かに語り始めた。
その声は震え、時折沈黙が入り混じる。
その沈黙の中で、私はあの日彼女に言われた言葉を胸の奥で反芻した。
「考えすぎじゃない?」——その無邪気な言葉が、今の彼女の苦しみにどう響いているのだろう。
私は返す言葉を探したが、義兄が先に口を開いた。
彼はトメと共に浮かれた様子で、義兄嫁の悩みを「マタニティブルー」の一言で片付けようとしていた。
義兄嫁の肩が小さく震え、その背中に私は、過去の自分の姿を重ねた。
帰り際、義兄嫁は私の連絡先を尋ねてきた。
私は一瞬ためらい、しかし「覚えていません」と静かに答えた。
ドアの向こうで、夕暮れの光が廊下に長い影を落とす。
その影の中、私はゆっくりと歩き出した。
背後には、義兄宅に残るトメの声と、義兄嫁の吐息がかすかに響いていた。
家路につく途中、私はふと立ち止まり、冷たい外気を深く吸い込んだ。
あの家の重苦しさが、まだ身体に絡みついている感覚。
けれど同時に、私はもう、あの迷宮から抜け出したのだと静かに自分に言い聞かせた。
スカッとする話:義実家という迷宮——差別と期待、沈黙の家事指導に囚われた私の長い日々
義実家という迷宮——差別と期待、沈黙の家事指導に囚われた私の長い日々
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