朝靄が、まだ眠りきらぬ街を薄絹のように包み込んでいた。
窓辺に立つ私の指先には、夜の冷たさがわずかに残っている。
彼女――私の義母は、その静けさを破る者だった。
義母の足音は、予期せぬ落雷のように我が家に響いた。
長男の嫁には春の陽だまりのように甘く微笑むくせに、次男の妻である私には、冷たい風のような言葉を投げつける。
「ここが汚れているわ」「そんなやり方ではだめよ」
彼女の声は、まるで鋭い針が布を裂くようだった。
私は言葉を飲み込み、夫の背に隠れるしかなかった。
夫は何度も抗議してくれた。
だが義母は、決して自分の非を認めなかった。
「私は間違っていないの」と、誰よりも頑なに。
ある春の日、私は決めた。
引っ越そう。
静けさを取り戻すために。
その決断は、静かな夜の湖に石を投げ入れるようなものだった。
波紋が広がり、やがてすべてが変わっていく。
私たちは黙って小さなマンションへ移り、義母との距離を物理的に、そして心の中でも引き離した。
やがて義兄の妻――まだ義母の本性を知らぬ彼女が、私に説教を始めた。
「悪意を持ちすぎよ」「お義母さんは良かれと思っているのに」「あなた、損な性格ね」。
彼女の言葉は、初夏の雨のように冷たく頬を打った。
私は静かにその声からも、距離を置いた。
*
季節はめぐり、桜の花びらが風に舞う頃。
義兄の妻が第一子を授かった。
そして、義母は本領を発揮した。
毎朝、義兄宅のチャイムが鳴る。
義母は、私にしたのと同じく、粗探しと家事指導に余念がなかった。
「赤ちゃんは女の子? じゃあ次は男の子を」と、娘の人生すら彼女の指でなぞられていく。
義母は出産に立ち会うつもりだったが、病院の凛とした空気がそれを拒んだ。
けれど彼女は諦めず、友人や親戚を引き連れて義兄宅に居座る。
ある日、私は義兄宅を訪れた。
居間の空気は湿った布団のように重たかった。
義兄の妻は、義母の愚痴をひとしきり吐き出した。
「あの日、あなたが私に言った言葉を、今返そうか?」そんな思いが胸をよぎる。
けれど、私は黙っていた。
代わりに義兄が、その場の空気を裂くように口を開いた。
「母さんも悪気はないさ。
慣れればいいんだよ」
……何も伝わっていない。
義兄の目は、春の陽射しを映しながらも、心の奥底に忍び寄る暗い影には気づいていなかった。
彼にとって、妻の苦悩はマタニティブルーの一言で片付くものだった。
その帰り道、義兄の妻は私の連絡先を尋ねた。
だが、私は微笑んで首を振った。
「ごめんなさい、覚えていなくて」と。
夕暮れの空は茜色に染まり、家々の窓に灯がともる。
私は静かに歩いた。
ただ、歩いた。
自分の心の静けさを守るために。
春の薄明に、義母の影は今も長く伸びている。
けれど、私の新しい朝は、もうそこにあるのだった。
スカッとする話:春の薄明に、義母の影は長く
春の薄明に、義母の影は長く
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