春先の朝、窓の外には薄く霞んだ陽射しが差し込んでいた。
まだ冬の名残を残した冷たい空気の中で、私は高校最後の一年を、どこか夢の中のような心地で迎えていた。
図書館の自動ドアが静かに開く。
カーペットに靴底が沈み込む感触。
木の本棚が吐き出す微かなインクと埃の匂いが、幼い頃から変わらない安心を与えてくれる。
その日私は、何気なく手に取った一冊の小説を借りた。
帰宅してページをめくると、紙のしおりの代わりに、小さなメモが挟まっていた。
「こんにちわ」
ひらがなで、たどたどしく書かれている。
インクはまだ新しい。
誰のものとも知れぬその文字に、私は一瞬、時が止まったような眩暈を覚えた。
翌週、私は好奇心と微かな不安を胸に、再び図書館を訪れた。
春の光が窓を淡く染め、カウンターの奥で、司書が静かに本を整理している。
別の本を手に取り、家でそっと開くと、またもやメモが落ちた。
「こんにちわ。
このまえのよんでくれましたか」
胸の奥が微かにざわめいた。
誰かが、私に向けて言葉を投げている。
その存在は、まだ名前も顔も持たないまま、私の暮らしの隙間に、そっと足を踏み入れてきた。
それから、一週間に一度ほどの頻度で、借りた本の中にメモが現れるようになった。
「こんにちわ」から始まり、なぜか私がしたことが、簡潔な言葉で書かれている。
「こんにちわ、こぶんのじかんねちゃだめだよ」
教室の窓際で、私はこっそりと居眠りをしていた。
だが、それを知っているのは、たぶん私だけのはずだった。
私は、誰がこんなことをしているのか考えずにはいられなかった。
本を借りる前に、ページをめくっては確かめたのに、気がつけばメモは、まるで風が落としていった落ち葉のように、いつの間にか挟まれていた。
図書館の貸出記録を思い浮かべても、私の直前に本を借りた人は毎回違うという。
友人たちにそれとなく尋ねてみても、同じようなメモを受け取った者はいなかった。
ある日、メモには、私が放課後、駅前のカフェでうたた寝していたことまで書かれていた。
これは、学校の中の誰かではなく、もっと広いどこかで私を見つめている存在なのだろうか。
三ヶ月ほど経った頃、春は初夏へと移り変わっていた。
校庭の桜はすっかり葉桜になり、湿った風が制服の袖を揺らす。
私はついに、恐怖と好奇心が絡み合った糸に心を締めつけられ、友人の彩花にすべてを打ち明けた。
「返事、書いてみれば?」
彩花は私の話を一通り聞くと、そんなふうに提案した。
私は決心し、震える手でペンを執る。
「こんにちわ。
いつもありがとう。
でも、もうすぐ卒業だから手紙読めないんだ。
ごめんね。
さようなら。
」
その手紙を、そっと本に挟んで返却した。
翌週、また図書館へ足を運ぶ。
梅雨の気配が近づき、雨に濡れたアスファルトの匂いが、どこか懐かしさを伴って鼻先をかすめる。
借りた本を開くと、最後のメモが残されていた。
「わかった。
ばいばい。
」
その文字は、いつもより少しだけ整って見えた。
それ以来、どの本の中にも、もうメモは挟まれていなかった。
春霞の向こうに消えていった、名もなき誰かとの静かな往復書簡。
あれは幻だったのか――今も時折、ページをめくるたび、私はそっと指先で、もう一度だけあの言葉を探してしまう。
不思議な話:春霞の図書館、手紙は静かに忍び寄る
春霞の図書館、手紙は静かに忍び寄る
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