結婚式場の窓辺から、午後の光がテーブルクロスに淡い影を落としていた。
六月の湿った風が、レストランの中にかすかに青臭い緑の匂いを運んでくる。
その日、私の親戚の兄――誠一が新郎として立つはずの壇上は、不穏な気配に満ちていた。
式の開始を告げる鐘の音が、まだ誰の耳にも届いていない頃。
ふいに、場違いな喧騒が廊下から響いてきた。
「娘の結婚式だ、娘を返せ!」――老女の叫びは、どこか壊れた楽器のように、静かな空間を無遠慮に引き裂いた。
見るからに古びた着物を纏ったその女は、目の奥に消え入りそうな炎を宿しながら、会場に押し入ってきたのだった。
新婦の両親は、青ざめた顔で静かに席を立ち、誰にも告げずに会場の奥へと消えていった。
私はただ、重苦しい沈黙の中、遠くで誰かがグラスを落とす音を聞いていた。
時が止まったような数分間が過ぎ、やがて式は、わずかに遅れて始まった。
新婦――玲子さんは、まるで何事もなかったかのように、柔らかな笑顔を浮かべていた。
白いドレスが午後の光を受けて、まるで淡雪のように彼女の輪郭をやさしくぼかしていた。
その笑顔の奥に、私は言い知れぬ影を感じていた。
*
あれ以来、私は時折、あの結婚式の情景を思い出す。
なぜか記憶の中で、玲子さんの微笑みだけが鮮やかに残っている。
数年を経て、偶然、誰かの口からその真相を聞くことになるまでは――。
玲子さんは養女だった。
その日、騒ぎを起こした老女は、彼女の実の母だったのだという。
かつて裕福な家の令嬢だった彼女の実母は、時の流れに取り残され、やがて生活は零れ落ちるように貧しくなった。
弟の結婚が「逆玉」となり、再び栄華に返り咲けると信じて疑わなかったという。
そのために、借金をしてまで身の回りを取り繕い、家財や衣服に無理を重ねた。
玲子さんがまだ幼かったころ、彼女の存在を婚約者に隠すため、時にはガムテープで口を塞ぎ、庭の物置に閉じ込めることもあったという。
幸福のための犠牲というには、あまりに歪んだ愛情だった。
だが、秘密は長く保てなかった。
やがて婚約者に妹の存在が露見し、面会を求められると、実母は慌てて玲子さんを友人の家に養女として差し出した。
「もう、うちの子ではない」と言い切り、祝福の席に実の娘を呼ばなかったのだという。
玲子さんは、実母をひどく恨み、連絡を絶った。
あの晴れやかな控室で、「あの女はいつも私を不幸にする」と、誰にも聞こえぬよう呟いたという。
その言葉は、まるで薄い氷がひび割れる音のように、私の心にも残った。
*
それから幾年かが過ぎ、実母の夢見た「逆玉」の結婚も、玲子さんの実兄の浮気により、あっけなく崩壊した。
栄光の残り香もなく、彼女は子どもたちからも見放され、孤独の中に沈んでいった。
玲子さんは今、別の場所で静かに暮らしている。
あの結婚式の午後、逆光の中に浮かんだ微笑みは、悲しみと、そして小さな解放の色を帯びていた。
苦いコーヒーを一口飲み下すたび、私はふと思うのだ――人は、どこまで過去に囚われ、どこから自由になれるのだろう、と。
玲子さんが今、ほんの少しでも幸福であるなら、それが何よりだ。
彼女の人生の痛みが、少しずつ薄れていくことを、私は静かに願っている。
修羅場な話:逆光に微笑む花嫁――ある結婚式前夜の断章
逆光に微笑む花嫁――ある結婚式前夜の断章
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