午後の光が、ガラス張りの天井から舞い降りていた。
初夏の陽射しは、白く磨かれた大理石の床を淡く照らし、歩み去る人々の影を細長く伸ばしている。
週末の大型ショッピングモールは、さながら巨大な水槽のなかを泳ぐ群れのように、思い思いの目的地を目指して人々が流れていた。
美月はその流れのなかにいた。
ブランドショップのショウウィンドウに映る自身の姿に一瞬目を留めてから、ハイヒールの歩みを止めた。
周囲のざわめきが、まるで遠い波音のように耳をかすめていく。
香水と焼き立てパンの匂いが、空気の層を複雑に縫い合わせていた。
そのときだった。
不意に声をかけられる。
「すみません――」
柔らかだが、どこか困惑を含んだ男の声だった。
振り返ると、彼女よりやや年上と思しき男が立っていた。
ワイシャツの袖を無造作に折り返し、手にしたスマートフォンを頼りなげに握っている。
「妻を見失ってしまって……少しだけ、お話ししてもらえませんか?」
唐突な申し出に、美月は思わず瞬きをした。
なぜ、私なのだろう。
視線を泳がせると、男の顔には焦りと、しかしどこかしら人懐こい笑みが浮かんでいた。
「いいですけど……どうして私なんですか?」
問いかけた自分の声が、思ったよりもかすかに震えていることに気づく。
見知らぬ人との距離感。
警戒心と、どこか好奇心が絡まり合う。
男は小さく肩をすくめ、苦笑した。
「あなたのような美しい方と話していると、なぜか妻が、どこからともなく現れるんです」
冗談めかしたその言葉に、ほんのわずか、美月の胸の奥で何かがほどけた。
人混みに消えていく時間の流れのなか、ふたりのあいだに生まれた一瞬の静寂。
遠くで子どもの笑い声がはじけ、珈琲の香りがそっと鼻先をかすめる。
この男は本当に困っているのか、それともただの冗句なのか。
美月は自分でもわからないまま、微笑みを返した。
心のなかで、淡い波紋が静かに広がっていく。
――人は、なぜ他人の優しさを欲するのだろう。
ショッピングモールの午後、あふれ返る光と人波のなかで、ふたりの見知らぬ者の会話だけが、かすかな余韻となって、美月の心に残った。
笑える話:消えゆく人波のなかで――ショッピングモールの午後に出逢うもの
消えゆく人波のなかで――ショッピングモールの午後に出逢うもの
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