―本当に、君には困らされたよ。
あの日々の記憶は、まるで柔らかな陽射しが差し込む冬の朝のように、僕の心の中でいつまでも色褪せずに残っている。
バスの中、乾いた排気ガスと微かに混じる香水の匂い、座席シートのざらつきを指先で無意識になぞっていた僕の耳に、突然君の声が飛び込んできた。
「付き合ってください!」その言葉は、まるで静寂を引き裂く稲妻のように響き渡った。
周囲の乗客たちが一斉にこちらを振り返り、車内のざわめきと、微かに響くエンジン音が奇妙な和音を奏でる。
僕の頬はみるみる熱を帯び、心臓が胸の奥で激しく跳ねた。
君はどこか誇らしげに、だけどほんの少しだけ不安げに僕を見つめていた。
初めてのデートの日。
秋風が乾いた落ち葉を舞い上げ、午後の陽射しは斑模様にガラス窓を染めていた。
僕は駅前の時計台の下、何度もスマホを見つめ、周囲の人影を追いながら、君の姿を待ち続けた。
1時間、2時間、3時間…。
手のひらは汗ばんで冷たくなり、足元に重たい不安が広がっていった。
ようやく息を切らして現れた君は、「ごめんね」と笑い、髪に絡んだ風を手で払った。
その瞬間、胸の中に溜まっていた心配が急に溶けて、代わりに愛しさが溢れてきた。
ペアマグを買った日。
ショッピングモールの明るい照明、ガラス越しに反射する君の笑顔、手にしたばかりのマグカップには二人だけの秘密のイニシャルが刻まれていた。
でも、帰り道のカフェで、君は飲み物を入れようとして手を滑らせ、マグが床に落ちて割れてしまった。
高く響く陶器の砕ける音、静寂に包まれる店内。
君は「やっちゃった」と舌を出して笑ったけれど、僕の心の奥では「またか」と小さなため息をついていた。
でも、その不器用さすら愛おしかった。
海遊館では、イルカの水槽前で君が子供のように夢中になり、気づけば人波に紛れて君の姿を見失った。
水槽越しの薄暗い青い光、冷たいガラスの感触、館内に響く水の流れる音と子供たちの歓声。
僕は焦りながら人々の間をすり抜け、君の名前を心の中で何度も呼んだ。
再び君を見つけたとき、君ははしゃいだ顔で「こっちだよ」と手を振っていた。
それ以来、どこへ行くにも手を繋ぐようになった。
君の手は少し小さくて、温かく、指先に微かな震えを感じた。
修学旅行から帰って、お土産のぬいぐるみを君に渡した時、君は両手でそれを抱きしめて、しばらく何も言わずにぽろぽろと涙をこぼした。
その涙はまるで春の雨のように静かで優しく、でも止め処なく溢れていた。
周囲の友人たちが遠巻きにこちらを見ていたけれど、僕は君の笑顔を見て「渡してよかった」と思った。
君の誕生日。
帰り際に「まだ一緒にいたい」と君が駄々をこねた。
夕暮れの町、オレンジ色に染まる道、遠くで犬の鳴き声が聞こえていた。
結局、君の親に叱られてしまったけれど、そのひとときは僕にとって何よりも大切な思い出だ。
けれど、一番辛かったのは、君が病気のことを黙っていたことだった。
何となく君が以前よりも元気がない日が増えて、でも君は「大丈夫」と笑った。
その笑顔の裏に隠された痛みや孤独に気付けなくて、自分の無力さが悔しかった。
そして、あの夜。
君と初めて一緒に泊まった夜は、梅雨の湿気が部屋に残る夜だった。
外では雨が静かに窓を叩き、室内には君の香水の匂いと、寝具の新しいリネンの香りが混じっていた。
君はベッドに転がりながら、興奮気味に友達へ電話をかけまくり、僕はその隣で少しだけ照れくさく、それでも君の幸せそうな声に耳を澄ませていた。
翌日、学校で噂になって少し大変だったけど、僕にとっては特別な夜になった。
君の病気が治ったと聞かされた日、胸の奥に温かな希望の光が差した。
けれど、その後すぐに君から「別れたい」と告げられた瞬間、世界が音を失ったように感じた。
心臓が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
何度も理由を聞きたかったけれど、君は下を向いて、ただ黙っていた。
それから、君との連絡が途絶えた。
毎日、携帯を見てはため息をつき、夜になると君のことを思い出して眠れなくなった。
季節が過ぎ、桜の花びらが舞う頃、僕のもとに君からの手紙が届いた。
便箋には君の丸い文字で「元気ですか?」と書かれていた。
その瞬間、心が跳ねるように嬉しかった。
しかし、それから数日後、君のお母さんからの手紙が届いた。
白い封筒を開ける手が震え、便箋を広げると、そこには真実が記されていた。
君の病気は治っていなかった。
東京へ行くのは最先端の治療を受けるためだった。
そして、君が僕に嘘をついていたことを知った。
嘘をつかれたことよりも、君が一人で苦しんでいたことに気付けなかった自分が許せなかった。
最後の瞬間だけでも、君と一緒にいたかった。
君の手紙の最後には「あなたを愛しています」と書かれていた。
その言葉を直接聞きたかった。
君の声で、君の温度で。
だけど、それはもう叶わない。
それでも、君と過ごした時間は、僕の人生の中で何よりも大切な宝物だ。
君と一緒に笑った日々、泣いた夜、すべてが今も僕の心を温めてくれる。
そして、また小包が届いた。
中には、君の闘病日記の1ページと、君が大切にしていたピアスが入っていた。
日記には、君の揺れる心と僕への想いが切々と綴られていた。
ピアスを手に取ると、微かに君の香水の匂いが残っていた。
最後まで君らしく、僕を困らせるんだね。
君の最後の願いは、「私以上に、誰かを愛してください」というものだった。
その言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。
今、そのピアスは僕のネックレスになっている。
君の想いを胸に、新しい恋を始めるよ。
ありがとう、本当に。
君と出会えたこと、君を愛せたことが、僕の人生の光だった。
恋愛の話:記憶の波間に揺れる君との日々―色彩、温度、痛み、そして最後の願い
記憶の波間に揺れる君との日々―色彩、温度、痛み、そして最後の願い
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