春の朝靄が、まだ眠りから覚めきらぬ街を淡く包んでいた。
バスの車窓を流れる景色は、どこか遠い記憶のなかに滲んで見える。
あの日も、こんな朝だった気がする。
突然、彼女は立ち上がり、ためらいのかけらもなく叫んだのだ。
「付き合ってください!」
車内に広がる静寂と、何十もの視線が一斉にこちらを射抜く。
僕は座席の縁を握りしめ、頬が熱くなるのを隠せなかった。
彼女は、いつだって僕を困らせた――けれど、その瞬間ほど、彼女のまっすぐさが眩しく思えたことはなかった。
初めてのデートの日。
時計の針が三度、円を描いた。
冷えたベンチと手のひらの汗。
人混みのなか、彼女の姿は現れない。
不安が胸の奥で膨らみ続ける。
やがて、息を切らして駆け寄る彼女の笑顔を見たとき、僕の心の中の嵐は、ふいに青空へ変わった。
ペアのマグカップを買った日も忘れられない。
店の袋から取り出したその瞬間、彼女はうっかり手を滑らせてしまった。
「あっ」と短い悲鳴。
割れた陶器の音が、静かな午後に小さく響く。
彼女は困ったように笑い、僕もつられて笑った。
でも、心のどこかで「またか」と呟いていた。
海遊館。
イルカショーの歓声に紛れて、彼女は群衆の波に飲み込まれてしまった。
僕は必死に人の間を縫って探した。
ようやく見つけたとき、彼女は子どものように無邪気な目をしていた。
その日以来、僕たちはどこへ行くにも、自然と手を繋ぐようになった。
修学旅行から帰った日、僕は彼女に土産のぬいぐるみを手渡した。
彼女は受け取るなり、堰を切ったように泣き出した。
周囲の友人たちの視線が痛かったけれど、彼女の泣き顔の向こうに、確かな笑顔が見えた。
その瞬間、すべてが許された気がした。
彼女の誕生日。
夜空に星が瞬く帰り道、僕たちはいつまでも別れを惜しんだ。
「帰りたくない」と駄々をこねる彼女と、駅前で小さな言い争い。
最終的に彼女の母親が迎えに来て、僕は頭を下げた。
その短い時間が、不思議と今も心の中で光っている。
一番苦しかったのは、彼女が病気のことを隠していたと知ったときだった。
なぜ話してくれなかったのか。
僕に心配をかけたくなかったのだろう。
でも、僕はただ、彼女の隣にいたかっただけだった。
あの夜、彼女と二人で過ごした。
布団の中で、彼女は興奮気味に友人たちに電話をかけまくり、翌日、学校で妙な噂が広がっていた。
恥ずかしさと可笑しさが入り混じる、奇妙な記憶だ。
彼女の病気が治ったと聞かされた日、僕は喜びに胸を躍らせた。
しかし間もなく、彼女から突然の別れを告げられる。
心臓を素手で握られたような衝撃。
あの日から、彼女からの連絡は途絶えた。
季節が巡り、高校に進学した春。
ポストに一通の手紙が届いた。
封を切る手が震えていた。
彼女の文字は、相変わらず丸くて優しかった。
けれど、その数日後、彼女の母親からの手紙が届く。
真実は、あまりにも残酷だった。
彼女は治ったのではない。
東京へ行く理由は、ただ治療のためだったのだ。
彼女は、僕に嘘をついていた。
裏切られた気持ちよりも、最後の瞬間さえ共にいられなかったことが、何より寂しかった。
彼女の最後の手紙には、こう記されていた。
「あなたを愛しています」
その言葉を、もう一度、直接聞きたかった。
けれど、僕と彼女が過ごした日々は、今も胸の奥で静かに輝き続けている。
あの日々こそが、僕のかけがえのない宝物だ。
春の終わり、また一つ、小包が届いた。
中には、彼女の闘病日記の切れ端と、彼女がよくつけていたピアスが一つ。
最後まで、彼女は僕を困らせる。
日記の最後には、こう書かれていた。
「私以上に、誰かを愛してください」
ピアスは、今、僕の首元で静かに揺れている。
新しい恋を始める準備は、まだ整わないけれど――それでも、歩き出そうと思う。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
恋愛の話:君が遺した光――春の終わりに届いた手紙
君が遺した光――春の終わりに届いた手紙
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