幼い日の午後、家の中には静けさが満ちていた。
両親は外出し、私は一人、誰もいない居間のソファに沈み込んでいた。
窓の外では春の光が、薄いカーテン越しに部屋の隅々まで柔らかく広がっている。
時折、遠くで犬の鳴き声が聞こえ、どこかの家の子どもたちの笑い声が風に運ばれてきた。
テレビの音も消してしまった私は、冷蔵庫からこっそり持ち出したオレンジジュースの缶を手にしていた。
ほんの少しの背徳感――けれど、喉を潤すその甘さに心までほどけていく気がした。
だが、不意に手が滑る。
ひやりと冷たい液体が膝を濡らし、床へと広がっていった。
あわててティッシュの箱を引き寄せ、何枚も、何枚も引き抜いては床を拭った。
紙の感触が指先に残る。
やがて箱は空っぽになり、軽くなったそれを何気なく覗き込んだ瞬間、私は息を呑んだ。
――夜道が、そこにあった。
それは決して比喩ではない。
ただの紙箱の底に、見知らぬ夜の街路が広がっていた。
アスファルトは湿り気を帯び、街灯の鈍い光が点々と続いている。
箱の中から、春とは思えぬ冷たい風が、音もなく吹き上げてきた。
私はそっと箱の縁に指を近づけ、半信半疑で差し入れてみた。
すると、確かに、風の流れが肌を撫でていった。
「なんだ、これ……」
声もなくつぶやいた。
怖いより、むしろ奇妙な愉しさが勝っていた。
子ども特有の無邪気な好奇心が、私という小さな器を満たす。
不意に、指先にぬるりとしたものがまとわりついた。
驚きに身を引くと、緑色のゼリー状の物体が、手にまとわりついている。
透明な膜の奥には、まるで小さな目玉のようなものが、こちらをじっと見返している気がした。
「うわっ……!」
情けない声をあげて、私は洗面所へ駆け込んだ。
蛇口をひねると、冷たい水が手のひらを打つ。
必死でこすり洗い続ける。
ゼリーはなかなか落ちず、私は時折、握りつぶすようにして、なおも洗い続けた。
時計の針がどれほど進んだかも分からない。
ただ、右手のひらがひりひりと熱を帯びていく。
ようやく落ち着きを取り戻し、再びあのティッシュの箱を覗き込んだ。
だが、もう何も見えなかった。
そこには、ただ薄暗い紙の底が横たわるばかり。
まるで、さっきの出来事は夢だったかのように。
夕暮れ、両親が帰宅した。
私は勇気を出して、出来事を語ったが、信じてもらえなかった。
ただ、右手の甲に水ぶくれがひとつ、痛々しく残っていた。
それが唯一、この世界とあの異界とをつなぐ証拠だった。
翌朝、東の空が白み始めるころ、私はランドセルを背負い、学校へ向かう道を歩いていた。
家の近くの、雨水がたまる溝。
ふと足を止めると、昨日のものより小さな、緑のかけらが、静かに身を震わせながら進もうとしていた。
無意識に足を振り上げる。
踏み潰した感触が、靴の裏に鈍く残った。
胸の奥に、奇妙な罪悪感が湧き上がる。
あれは一体、何だったのだろう。
なぜ、私のもとに現れたのか。
もしかしたら、私は知らぬ間に、世界を救ってしまったのかもしれない――そんな幼稚な妄想が、ふと心に浮かんだ。
それから幾年が過ぎた今でも、あの夜の箱庭を、私は時折、夢の中で思い出す。
不思議な話:夜の箱庭――少年が垣間見た、世界の裂け目
夜の箱庭――少年が垣間見た、世界の裂け目
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