これは、私の人生の軌跡を根本から変えてしまった、決して消えることのない後悔の物語です。
時を巻き戻せるなら、何度でもあの日の自分を叱責したい。
だが、現実は残酷なまでに一方通行で、私は今も、あの山の奥に残した何かに囚われ続けているのです。
大学三年の初夏。
都心の喧騒も少し和らぎ、学生街には初々しい緑の匂いが満ちていました。
私は、Aという女性と付き合っていました。
彼女は控えめながらも芯の強さを感じさせる人で、笑顔にどこか影があり、私はその奥ゆかしさに惹かれていました。
私たちの間には、特別な熱情も、穏やかな時間も、青春の余白がふんだんにありました。
授業が終われば、駅前のカフェで本を読んだり、映画館の暗闇に身を預けたり。
彼女と手を繋いで歩く時、やわらかな手の温もりと、ほのかな香水の残り香が私の心に安らぎをくれたものです。
その日も、窓の向こうを流れる青空に、夏の始まりを感じていました。
Aはふいに、瞳を輝かせてこう言いました。
「今度の週末、近くの山にハイキングに行かない?」彼女の声は、いつもより心なしか弾んでいるように感じました。
私は内心、少し意外でした。
Aは普段、自然に強い関心を見せるタイプではなかったからです。
しかし、彼女の期待に応えたい気持ちもあり、即座に「いいね」と返事をしました。
心の奥底では、何か新しい思い出が生まれる予感に、微かな不安と高揚が交錯していました。
調べてみると、その山は市内から電車で一時間ほど。
駅からはなだらかな道が続き、初心者向きだとガイドブックにはありました。
Aは「穴場で、人も少ないみたい」と嬉しそうに語り、私はその横顔に安堵と期待が入り混じるのを感じました。
迎えた当日。
朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋全体をやわらかな金色に染めていました。
私はリュックに最低限の荷物を詰めながら、雨具を持つべきか迷いました。
天気予報は晴れマーク一色。
それを信じて、軽装のまま家を出ました。
駅のホームには、休日ののびやかな空気が漂い、Aはデニムに白いシャツというシンプルな装いで現れました。
彼女の髪が朝の風に揺れ、私はそのさりげない美しさに、胸の奥が少し熱くなるのを覚えました。
電車の車窓から流れる景色は、次第に高層ビルから緑の丘陵へと移り変わっていきました。
車内には私たち以外に乗客はまばらで、車輪の規則正しい音だけが静かに響いていました。
駅に降り立つと、山へ向かう道には清々しい緑の香りが漂い、土の湿った匂いと新芽の甘い香りが、私の鼻腔をくすぐりました。
Aと私は、互いに顔を見合わせ、思わず微笑みました。
こんなにも心地よい朝を、二人きりで歩くことができる幸せに、私は胸を満たされていました。
登山道の入口には、古びた木製の看板があり、その下には苔むした石段が続いていました。
山はよく整備されていて、道の両脇には草花が咲き、鳥たちのさえずりが遠くから聞こえてきました。
太陽の光が木漏れ日となって降り注ぎ、葉の緑が揺れるたび、光と影が繊細に踊ります。
Aは、ふと立ち止まり、苔むした岩を指さしました。
「あの岩、ほら、人の顔に見えない?」彼女の声は幼い子供のようにはしゃいでいて、私はその無邪気さに心が解けるような気がしました。
「本当だ、ちょっと怖い顔してるね」と応じると、Aはくすりと笑いました。
私は彼女の横顔を見つめながら、こんな平和な時間がいつまでも続けばいいと、無意識に願ってしまっていました。
山道には他に登山客の姿はなく、私たちは静寂と自然の音に包まれながら、ゆっくりと歩みを進めました。
時折、木々の間から差し込む光が、Aの髪に金色のハイライトを与え、汗ばむ肌に風が心地よく触れていきます。
呼吸は次第に深くなり、肺に新鮮な空気が満ちていく感覚がありました。
自然の中に身を置くことで、日常の細かな不安や焦燥が、すうっと身体から抜けていくようでした。
しばらく進むと、山道の脇に小さな古びたお堂が現れました。
茅葺の屋根は所々苔むしていて、木の柱は長年の風雨に晒され、灰色に変色していました。
その静謐さは、自然とは異なる重苦しさを含んでいました。
Aは、立ち止まり、しばらくお堂を見つめていました。
私はその横顔に、何か幼い頃の記憶を探るような表情を見て、ふと胸騒ぎを覚えました。
お堂の裏手に回ると、獣道のような細い道が続いていました。
Aは、興味津々といった面持ちで「こっち、行ってみようよ」と私を促しました。
私は一瞬躊躇しました。
そこには「立ち入り禁止」と書かれた錆びついた看板が、草に埋もれるように立てかけられていたからです。
しかし、その時の私は、Aに頼られることに優越感を感じていたのかもしれません。
「大丈夫だよ」と軽く笑い、彼女の後に続きました。
今思えば、その一歩が、私にとって大きな岐路だったのです。
裏道は次第に険しくなり、木の根が地表を這い、足元はぬかるみ始めていました。
鳥の声も次第に遠ざかり、葉ずれの音と私たちの足音だけが、深い森に響きました。
湿った空気が肌にまとわりつき、草の匂いと土の匂いが混じり合い、どこか生臭さを感じさせました。
私は、背中にじっとりと汗をかきながらも、Aの背中を見失わないように必死で歩きました。
時折、遠くで雷鳴のような音が響いた気がして、私は無意識に空を見上げ、曇り空に不安を募らせていました。
十分ほど進んだ先に、小さな滝が現れました。
落差はさほどありませんが、岩に当たる水音が谷間に反響し、周囲の空気を冷たくしています。
Aは、滝壺の近くに腰を下ろし、リュックから小さな包みを取り出しました。
「ここでおにぎり食べようよ」彼女が差し出したおにぎりは、海苔の香りと米の甘みが混ざり、山の空気の中で格別の味に感じました。
私は、口の中にひろがる塩気と、近くを流れる滝の微細なしぶきの冷たさを感じながら、何もかもが非日常に思えました。
しかし、その幸福感は長くは続きませんでした。
突然、木々の葉がざわめき、空が暗くなったかと思うと、ポツリ、ポツリと雨粒が落ちてきました。
最初は遠慮がちだった雨は、すぐに本降りとなり、私たちは慌てて大木の下へ駆け込みました。
葉の隙間から冷たい雨粒が肩を打ち、湿った空気が一層重く感じられました。
Aは「どうしよう」と不安そうに私を見ました。
私は彼女の肩を抱き寄せ、「すぐ止むさ」と強がってみせましたが、心臓は早鐘のように打ち続けていました。
雨は一向に止む気配を見せず、私たちは次第に濡れそぼっていきました。
その時、Aが何かを見つけたように指さしました。
「あそこ、洞穴みたいなのがあるよ」私は、雨のカーテン越しに、岩陰に黒い穴を見つけました。
二人で駆け込むと、洞穴の中はひんやりとした空気に包まれており、外とは別世界の静寂が支配していました。
水のしずくが岩肌を伝い、微かな土と苔の匂いが漂います。
私たちは、互いの体温を感じながら、しばし無言で雨音に耳を澄ませていました。
「雨、止まないねぇ」Aがぽつりと呟きました。
その声は、洞穴の壁にやさしく反響し、静けさを一層際立たせました。
私は、Aの濡れた髪が頬に張り付き、唇がかすかに震えているのを見て、言いようのない衝動に駆られました。
Aがそっと私の手を握り、その手のひらの温もりが、私の全身を駆け巡るようでした。
私は、彼女の潤んだ瞳に引き寄せられ、思わず唇を重ねました。
洞穴の中は、私たちだけの世界となり、外の雨音が遠のくほどに、互いの呼吸と鼓動だけが強く響き合いました。
理性のたがが外れ、私は欲望に身を任せてしまいました。
あの時、何が正しいことだったのか、今も答えは出ません。
ただ、あの一瞬、すべての不安や恐れを忘れられるほど、彼女との時間に没頭してしまったのです。
どれほどの時が過ぎたのか、やがて外の雨音が止んだことに気づきました。
洞穴の外には、新しい光が差し込み、雨に洗われた木々がみずみずしく輝いていました。
私たちは無言のまま、山道を引き返しました。
下山する途中、Aは時折私の手をしっかりと握り、私は彼女の存在の確かさを感じていました。
しかし、心の奥では、微かな罪悪感と説明のつかない不安が、じわじわと広がっていくのを感じていました。
翌日、私たちはファミリーレストランで夕食を共にしました。
店内は明るく、陽気な音楽が流れ、他の客の笑い声が響いていました。
しかし、私はなぜか周囲の視線が気になって仕方ありませんでした。
Aは楽しげにメニューを選んでいましたが、私は落ち着かない気持ちでいっぱいでした。
その後、Aは私の部屋に泊まることになっていました。
これまでも何度かそうしたことがあり、自然な流れのはずでした。
夜になり、部屋の照明を落とすと、私たちはベッドに横たわりました。
Aの温もりが、私の肌に伝わってきます。
けれども、その瞬間、私は強烈な「視線」を感じたのです。
まるで、誰かが暗闇の中からじっとこちらを見ているような、不快な圧迫感でした。
背筋に冷たいものが走り、心臓がバクバクと音を立てていました。
「誰かに見られてないか?」私は動揺を隠せず、Aに尋ねました。
Aは首をかしげながら部屋中を見回し、クローゼットやカーテンの裏まで調べてくれましたが、何も異常はありませんでした。
私は少し安堵しましたが、それでも得体の知れない不安は消えませんでした。
その夜、私は奇妙な夢を見ました。
夢の中で、私は誰か別の人間――むしろ、何人もの視点を同時に体験していました。
荒れた山の中、屈強な男たちが夜の闇に紛れて何かを待ち伏せていました。
遠くから、男女四人の若者が山道を歩いてきます。
私は冷たい目で彼らを見つめていました。
次の瞬間、男たちは物陰から飛び出し、男性の一人に襲いかかりました。
木の枝や石で何度も何度も殴打し、血が地面に広がっていきます。
女性たちは悲鳴を上げ、泣き叫びます。
男たちは、動かなくなった男性の脇で、女性に暴力を振るい始めました。
私はその光景を、傍観者でありながら、加害者であり、被害者でもあるかのような複雑な感覚で見ていました。
女性の絶叫、血の匂い、湿った土のにおい――あまりにも生々しく、私は耐えきれずに叫び声を上げて目を覚ましました。
汗で全身が濡れ、喉がひどく渇いていました。
この日を境に、私はAと肉体的な関係を持つことができなくなりました。
Aは最初、不思議そうにしていましたが、やがて私の異変に気づき始めました。
私は、Aの体温や香りを感じるたび、あの夢の光景がフラッシュバックし、心臓が早鐘のように打ち、呼吸が浅くなりました。
ある晩は、意識を失いかけ、またある夜は、白く細い手がベッドの下から現れる幻覚を見ました。
その手は冷たく、私の足首をつかもうとしたのです。
私は恐怖にかられ、跳ね起きました。
Aは「大丈夫?」と心配そうに顔を覗き込みましたが、私はどう説明したらよいのか分かりませんでした。
次第に、Aとの関係はぎくしゃくし始めました。
以前のように、彼女と過ごす時間が楽しいと思えなくなり、私の心は少しずつ離れていきました。
大学卒業の日、Aは「詳しい人に相談した方が良いんじゃない?」と静かに告げました。
その言葉の裏には、私を心配する気持ちと、どうにもならない距離を感じ取っていたのでしょう。
しかし私は、誰にどう相談すれば良いのか分からず、ただ時の流れに身を任せるしかありませんでした。
Aと別れてからも、私は何人かの女性と付き合いました。
けれども、関係が深まるたびに、あの山で経験した不可解な恐怖と夢の断片が蘇り、肉体的な関係に進むことができませんでした。
女性の肌のぬくもりを感じるたび、どこかから冷たい視線を感じ、胸の奥が締め付けられるのです。
心身ともに蝕まれ、やがて私は女性との関係を持つこと自体を避けるようになってしまいました。
今では、恋愛というものから遠ざかり、人のぬくもりとは無縁の人生を送っています。
月日は流れ、私はある衝動に駆られて、再びあの山を訪れることにしました。
何かが解決するとは思いませんでしたが、少しでも前に進める手掛かりが得られるのではないか、そんな微かな期待がありました。
山道は以前と変わらず、静けさの中に時折鳥のさえずりが響き、木々の間から差し込む光が、私の影を長く伸ばしていました。
お堂の近くで、作業服姿の老人が枯れ枝を拾っているのを見かけました。
私は勇気を振り絞って話しかけました。
「このお堂、昔からあるんですか?」老人は、しばらく遠くを見つめ、低くしわがれた声で答えました。
「この辺はな、昔山賊が出て、旅人や村の人を襲っとったらしい。
ひどいことをしてな……最後は村人に退治されたそうだが、犠牲者の魂を鎮めるためにこのお堂を建てた、て話だ。
まあ、昔話だけどな」老人の語る言葉は、静かな森の空気に溶け込むように重く響き、私は背筋に冷たいものが走るのを感じました。
私は本当に、あの山の犠牲者に祟られてしまったのでしょうか。
「知らなかった」と言い訳したところで、何も変わらないことは分かっています。
しかし、あの場所がそんな因縁の地だったとは知らず、たまたま踏み入れてしまった自分が罰を受けることには、どうしても理不尽さを感じてしまいます。
Aの言う通り、霊的な専門家に相談すべきなのかもしれません。
けれど、山での過ちを告白したら、逆に諭され、糾弾されることになるのではないかと、私は怖いのです。
「後悔先に立たず」――この言葉が、今も私の心の奥深くに響き続けています。
もし過去に戻れるなら、何も考えずに行動してしまったあの日の自分に、必死で警告したい。
けれど、現実は私を逃がしてはくれません。
あの時、私たちが山奥で越えてはならない一線を越えてしまったことが、今も私の人生に影を落とし続けているのです。
静かな夜、一人きりの部屋で、私は時折、あの洞穴のひんやりとした空気や、Aの濡れた瞳、そして夢の中で見た惨劇の断片を思い出します。
私の人生は、あの日の山の奥で、決して戻れない分岐点を越えてしまったのです。
たとえ誰にも理解されなくても、この後悔だけは、私が生きる限り消えることはありません。
怖い話:後戻りできない後悔と呪縛――山の奥で交錯した愛と恐怖の超詳細記憶録
後戻りできない後悔と呪縛――山の奥で交錯した愛と恐怖の超詳細記憶録
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