怖い話:雨の山、祟りの影――取り返しのつかない後悔について

雨の山、祟りの影――取り返しのつかない後悔について

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後悔という言葉は、時にぬめりとした重みをもって心を蝕む。
あの山の、あの雨の日から、私はその言葉の本当の意味を知った気がする。

 大学三年の春だった。
新緑の気配が街を満たし、私とAは、まだ世界を知らぬ二人の若者だった。
Aの瞳はいつも夜明けの湖のように澄んでいて、彼女の笑顔は春の陽射しのように私を包んだ。

 その日、Aがふいに言った。
「今度の日曜、近くの山にハイキングに行かない?」彼女の声は小鳥のさえずりのように軽やかだった。
私は「いいよ」と即答した。
理由はなかった。
ただ、Aと一緒にいられるなら、どこへでも行ける気がしたのだ。

 朝、駅前に集まった私たちの前で、東の空が白み始めていた。
Aはリュックを背負い、私は迷った末に傘もレインコートも持たず、晴れやかな気持ちで歩き出した。
電車の窓から流れる田園風景を眺めながら、私はぼんやりと「この日もいつか思い出になるのだろうか」などと考えていた。

 山の登山道はよく整備されていた。
鳥の声が木立の間をすり抜け、雨上がりの土の匂いが微かに鼻をくすぐった。
Aは「あの岩、人の顔に見えない?」と笑い、私はその無邪気さに心がほどけていくのを感じた。
すれ違う人影もなく、私たちは世界から切り離された二人だけの時間を歩いていた。

 やがて、古びたお堂が現れた。
苔むした石段、ひっそりと佇む小さな屋根。
その裏手に、草に埋もれかけた細い道があった。
Aが指差す。
「こっち、行ってみようよ」。
見ると、朽ちた木の札に「立入禁止」とある。
私は一瞬迷ったが、Aの手に引かれて何も考えず踏み入った。

 道は次第に険しくなり、息が上がったころ、不意に滝の音が耳に飛び込んできた。
水しぶきが空気を冷やし、苔のにおいと混じり合う。
その静かな空間で、私たちは持参したおにぎりを頬張った。
塩気と海苔の香りが、ひとときの幸福をくれた。

 そのとき、雨が降り出した。
ぽつり、ぽつりと葉を叩く音が、やがて世界を包む音楽になる。
Aと私は大木の下で雨宿りを試みたが、雨脚は強まるばかり。
Aが見つけた洞穴に駆け込んだ。
闇に包まれた狭い空間、湿気と土と、どこか鉄錆びたような匂い。

 「雨、止まないね」Aが小さく呟く。
その声に不安と期待が混じっていた。
ふいに、Aが私の手を握った。
しっとりとした掌の温もりが、私の心臓を打ち鳴らす。
Aの瞳が潤み、私たちは唇を重ねた。
言葉など必要なかった。
ただ、欲望と愛しさに身を委ねた。

 気づけば雨は上がり、山は静けさを取り戻していた。
夕暮れの光が木々の間から差し込み、私たちは何事もなかったように下山した。

 *

 翌日。
ファミリーレストランの窓際、通り雨がガラスを濡らしていた。
Aと私は向かい合い、コーヒーを啜る。
苦味が、昨夜の名残を洗い流すようだった。
食事のあと、Aは私の部屋に泊まると言った。
私は当たり前のことのように受け入れた。

 しかし、その夜。
私は初めて、説明し難い異常を感じた。
Aの肌を抱きしめているはずなのに、どこかに他人の視線を感じる。
何か冷たいものが、部屋の隅でじっとこちらを見ているのだ。
Aは冗談めかして「誰かいるの?」と部屋を確かめて回った。
もちろん、誰もいない。

 その夜、私は奇妙な夢を見た。

 暗い山道。
私は誰かの体を借りている。
屈強な男たちが茂みに隠れ、息を潜めている。
そこへ、若い男女の四人組が通りかかった。
突然、男たちが飛び出し、無慈悲に男たちを打ちすえる。
鈍い音、叫び声、血の匂い。
地面にうずくまった男たちの上で、女たちが泣き叫ぶ。
私は動けず、ただその光景を見ているしかなかった。

 目が覚めたとき、汗にまみれていた。
手足は冷え切り、心臓だけがやたらと早鐘を打っている。

 それからだ。
私はAと肌を重ねることができなくなった。
彼女の柔らかな髪に指を滑らせても、どこか遠くで白い手が私を引きずり下ろそうとする。
動悸が激しくなり、時には意識を失いかけた。
ベッドの下から、細く白い手が現れる幻覚すら見た。
Aは心配しながらも「専門の人に相談したほうがいいよ」と言ったが、私は何もできなかった。

 やがて大学を卒業する頃、私たちは自然に別れた。
私はAに何も説明できなかった。
Aのまなざしが、桜の花びらのようにひらひらと遠ざかっていった。

 *

 それから幾度か、他の女性と関係を持とうとした。
しかし、あの山の夜の影が、私の心と体を縛りつけていた。
誰かに見られているような感覚、夢の中で繰り返される惨劇。
私は女性と無縁の人生を歩むことになった。

 季節は巡り、私はもう一度、あの山を訪れる決心をした。
秋の終わり、冷たい風が木々を揺らしていた。
お堂のそばで、作業着を着た老人が一人、落ち葉を掃いていた。

 私は勇気を振り絞り、老人に声をかけた。
「このお堂には、何か由来があるんですか?」老人はしばらく空を見上げてから、ゆっくりと語り始めた。

 「昔な、この山には山賊がいたそうだ。
人を襲って酷いことをしたらしい。
結局、討伐されたが、犠牲になった人の魂を鎮めるために、このお堂を建てたって話さ。
噂だけどな」

 私は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
あの日、私たちは知らずに禁忌を犯してしまったのだろうか。
犠牲者の魂が、今もこの山に彷徨っているのだろうか。
この理不尽な罰を、誰に訴えればよかったのか。

 Aの言葉が、遠くで揺れる鐘の音のように思い出された。
「詳しい人に相談したほうがいいよ」。
だが、仮にそうしたところで、私の犯した過ちは消えない。
もし「山での行為が祟りを招いた」と諭されたなら、私はもう誰とも向き合うことはできないだろう。

 後悔先に立たず。
私は今も、あの時の自分に問いかけ続けている。
「なぜ、あんなにも軽率だったのか」と。
雨上がりの土の匂いが、今も胸の奥で静かに疼いている。
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