春の午後、オフィスの窓辺には淡い陽射しが降り注いでいた。
ビルの隙間を縫うように吹き抜ける風が、どこか遠い街の桜の香りを運んでくる。
書類の紙が擦れる音と、時折遠くから聞こえてくる電車の警笛だけが、静かな空間に溶けていた。
私はその日も、いつものようにデスクに向かっていた。
ふと隣の席から、短く控えめな受話器の音が聞こえてきた。
電話を取ったのは、噂に名高い「クールビューティー」――佐伯だった。
彼女は、どんな時も涼やかで、微笑みさえも演じない。
その無表情の奥に、何を隠しているのだろうと、同僚たちは時折ひそひそと囁き合った。
「はい、佐伯でございます」
彼女の声は、まるで磨き上げられたガラスのように澄んでいる。
私は思わず手を止め、彼女の横顔に目を向けた。
電話の相手は取引先のようだ。
佐伯は丁寧に相手の名前を復唱し、静かな声で尋ねた。
「失礼ですが、お名前はどのような漢字でしょうか?」
一瞬の沈黙。
受話器の向こうで、微かな戸惑いの気配が流れ込んでくる。
ややあって、相手の声が震えるように返ってきた。
「え? あ、はぁ……えっと、小太りでぇ、眼鏡かけていて……」
佐伯は、動じることなく、まっすぐにモニターを見つめていた。
その顔には、わずかな揺らぎもなかった。
私は思わず噴き出しそうになるのを、必死にこらえる。
相手はどうやら、「どんな漢字ですか?」を「どんな感じですか?」と聞き間違えたらしい。
そんなこと、誰が尋ねるだろう――私は心の中で小さく笑った。
佐伯は、何もなかったかのようにメモを取り、そっと受話器を置いた。
そして私に向き直ると、一言だけ淡々と告げた。
「先方、見た目を教えてくれました」
その声音に、わずかなユーモアの影も見えなかった。
彼女の顔は、冬の湖面のように静かで、笑いを堪えているようにも見えない。
だからこそ、私は堪えきれず、机の下で拳を握りしめた。
もし私なら、受話器を押さえて大笑いし、その後もしばらく思い出し笑いが止まらなかっただろう。
けれど佐伯は、そんな表情一つ見せずに、また次の仕事へと戻っていく。
春の陽射しに浮かび上がるその横顔は、どこまでも涼やかで、どこまでも遠かった。
私は、彼女の背中にそっと視線を送る。
人の感情とは、かくも多様で、かくも不思議なものなのだ――そう思いながら、私はそっとコーヒーを一口、口に含んだ。
苦味とともに、春の午後の小さな出来事が、心に温かな余韻を残していた。
仕事・学校の話:クールビューティーの伝言――春の午後に舞い降りた小さな誤解
クールビューティーの伝言――春の午後に舞い降りた小さな誤解
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