社会人になって間もない頃の私は、毎日が新しい刺激に満ちていた。
日常のルーティンを抜け出し、バスケットボールサークルという小さな世界に身を置くことで、社会という大海の中に自分の居場所を見つけたような安堵を感じていた。
体育館の床に響くスニーカーの音、汗を滲ませた仲間たちの笑顔、夕暮れの冷たい風――それら全てが、大学時代の漠然とした不安を、少しずつ、けれど確かに溶かしてくれていた。
季節ごとに開催されるイベントや、休日のたびに組まれる試合。
勝敗に一喜一憂する空気も、打ち上げのビールの苦味も、ひたすら「今」を生きる私を満たしてくれた。
仲間と過ごす時間はかけがえがなく、恋愛について深く思い悩むこともなかった。
恋という言葉は、遠くぼんやりとした靄の向こうにあるもののようだった。
そんなある年の、湿度の高い夏。
山間の合宿所は、セミのけたたましい鳴き声と、夜の静けさが混ざり合う不思議な空間だった。
木造の建物には微かな樹脂の匂いが漂い、廊下を歩く足音がやけに響く。
夕食後、外に出ると、山の空気は日中の蒸し暑さとは打って変わって、肌にひんやりとまとわりつく。
視界の端で、誰かが花火の準備をしているのが見えた。
夜空は墨を流したように濃く、遠くで虫の声が波紋のように広がっていた。
合宿の最後の夜、私たちは皆、思い思いに花火を手に取り、芝生の上に集まった。
火花の色はオレンジや紅、青、時折白く閃き、闇に浮かび上がる顔を明滅させる。
火薬の匂いが微かに鼻腔をくすぐり、湿った土の感触がサンダル越しに伝わってきた。
その夜、私は特に誰とも話さず、静かに自分の花火に火をつけていた。
耳を澄ませば、遠くで誰かが笑う声、花火が弾ける乾いた音、ふと訪れる静寂。
そんな時だった。
同じサークルの同期、Oくんが私の隣にそっと近づいてきた。
彼のTシャツからは、洗濯洗剤とほのかな汗の匂いが混じり合って漂ってくる。
「一緒に花火やっていい?」
その声は、周囲のざわめきと対照的に、柔らかく、けれど少しだけ緊張を孕んでいた。
私の心臓が、ほんの少しだけ跳ねる。
「いいよ」と自然に答えながらも、自分の声が思ったよりも高く響いた気がした。
Oくんが手にした線香花火を私の隣で火を灯す。
火花がしゅんしゅんと小さく鳴り、ふたりの顔の間に小さな光が揺れる。
私たちは肩を並べて座り、同じ方向を見つめていた。
足元の芝生は夜露で冷たく、手の中の線香花火からは、微かな熱と、火薬の独特な香りが伝わってくる。
静かに流れる時間の中で、Oくんが急に口を開いた。
その声は、花火の音にかき消されそうなくらい小さく、でも耳に直接響いてきた。
「ずっと美香とこうしていたかった。
合宿が終わっても、サークルの外でも、一緒にいたい。
」
その言葉が届いた瞬間、私の世界が一度、ふわりと止まったような気がした。
呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。
頭の中で何度もOくんの言葉が反響し、現実感がぼやけていく。
Oくんの横顔は花火の光に照らされて、普段よりも大人びて見えた。
私の視界は花火の終わりかけの火球に引き寄せられて、今にも落ちそうなそれを、必死に持ちこたえている自分に気づく。
突然の告白に、どう応えたらいいかわからない。
期待、戸惑い、嬉しさ、不安――幾つもの感情が胸の内で渦を巻く。
今まで「恋愛はあとでいい」と思っていた自分が、ほんの一瞬で変わってしまったことに気づき、戸惑いながらも抗えない。
線香花火がついに最後の火花を散らし、地面にぽとりと落ちた。
その音が、夜の静けさの中で妙に大きく感じられた。
Oくんが「じゃあ、みんなのところに戻ろうか」と言う。
その言葉は、何気ない別れの合図のはずなのに、どこか切なさを含んでいた。
その時、私は無意識にOくんの服の袖を掴んでいた。
自分でも驚くほど強く。
「まだ戻りたくない」と、ほとんど囁きのような声で呟いた。
自分でも気づかないうちに、心の底から湧き上がる衝動が、行動に現れていた。
Oくんが驚いたように私を見つめ、次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。
彼の体温と、夏の夜の湿った空気、そしてほのかな汗の匂いが、私の全身を包み込む。
すぐそばで誰かが笑う声が聞こえる。
遠くで、まだ花火がはぜる音がする。
けれど私の世界は、今この瞬間、Oくんの腕の中にだけある。
胸の鼓動はますます早くなり、頬が火照る。
過去の自分が遠ざかり、これからの「ふたり」の時間が、まだ見ぬ未来としてゆっくりと動き出すのがわかった。
合宿の夜、花火の光と暗闇のあいだで、私は確かに恋に落ちた。
恋愛の話:夏夜の花火と告白――五感を揺さぶる合宿の一瞬、私が恋に落ちた理由
夏夜の花火と告白――五感を揺さぶる合宿の一瞬、私が恋に落ちた理由
🔬 超詳細 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント