僕が小学四年生だった頃の、夏の終わり――。
その年の太陽は例年よりも粘り強く、九月を迎えてもなお、教室の窓から差し込む光は、机の縁をじりじりと焼き、僕たちの肌に微かな汗の膜を残していた。
学校が終わると、ランドセルを背負ったまま、僕とけんちゃん、としちゃんは連れ立って、校門脇のフェンスを抜け、小さな藪の奥へと足を踏み入れるのが習慣だった。
そこには、僕たち三人だけの“秘密基地”があった。
基地と呼んではいたものの、それは枯れた竹とブルーシート、錆びたトタン板を組み合わせて作った、歪んだ小屋だった。
地面は踏み固められて、所々に去年の落ち葉が薄茶色く張り付いている。
基地の真ん中には、なぜか古い街灯のポールが一本、斜めに突き刺さるように立っていて、昼間でもその影が薄暗い床に弧を描いていた。
辺りには湿った土と枯草、遠くで焼却炉が燃える焦げた匂いが混じり合い、夏の終わり特有の空気の重さがあった。
放課後、ランドセルを投げ出して基地に入ると、けんちゃんが「今日は何して遊ぶ?」と声を弾ませる。
としちゃんは、いつものようにお気に入りのミニカーを並べ始めていた。
僕たちは、学校では話せない秘密や、くだらない噂話、未来への漠然とした期待を、基地の薄暗がりの中でそっと分かち合っていた。
そんなある日――蝉の声がまだ微かに残っていた夕暮れ時、僕たちの基地の入り口に、アブちゃんが立っていた。
彼は同じクラスの、少し影の薄い男の子。
薄汚れたTシャツに短パン姿、靴下には学校の砂がついていた。
彼の両腕には、見慣れたガンプラの箱が三つ――その上に、組み立て済みのアッガイやザク、グフが重なっていた。
アブちゃんは、いつもより声を張るように「まぜて」と言った。
その声はほんの少し震えていて、僕たちの間に冷たい空気が流れた。
けんちゃんが「それで遊べるやん!」と即座に言った。
僕も、としちゃんも、その言葉にうなずいた。
理由は単純――ガンプラで遊べる仲間が増えるだけで、秘密基地の意味が少し拡がるような気がした。
アブちゃんも、ほっとしたように鼻の頭をこすりながら中に入ってきた。
新しく仲間が増えたことに、少しだけ誇らしさを感じていた。
しばらくは、みんなでガンプラを並べて遊んだ。
アッガイの丸いフォルム、ザクの関節の硬さ、プラスチックの手触り。
手の平は汗ばんで、細かい砂が指先に貼り付いた。
時折、風が小屋のすき間から吹き抜け、ブルーシートがぱたぱたと鳴った。
誰かが笑う声、パーツがこすれる音、そして時々訪れる沈黙。
その沈黙は、心地よいものではなく、どこか緊張感を孕んでいた。
やがて、パーツの取り合いが始まった。
誰がどのガンプラを動かすかで、僕も、けんちゃんも、としちゃんも、子どもらしい意地を張り出した。
アブちゃんが持ってきたアッガイ――その丸い目が、基地の薄明かりの中で不気味に光って見えた。
僕はつい「これ、俺が先に取ったんや」と言い張った。
アブちゃんは、唇をきゅっと結び、「アッガイを返して」と低くつぶやいた。
その声には、いつもより強い意志が感じられた。
その瞬間、僕の胸の奥に、ざらつくような不安が広がった。
アッガイを巡る小さな争いが、徐々にヒートアップしていく。
互いに腕を伸ばし合い、指先がもつれる。
僕は、アブちゃんの必死な顔を見て、なぜか引けなくなった。
何かを奪うこと、守ること――子どもの小さなプライドがぶつかり合い、僕の心臓は早鐘のように鳴っていた。
その時だった。
アブちゃんが、突然、甲高い声で「いややぁ!」と叫んだ。
その叫びは、基地の壁に反響し、耳の奥でビリビリと震えた。
次の瞬間、僕の耳にキーンと高い音が走り、世界が歪んだような感覚に襲われた。
息を飲む――鼓動が一気に早まり、手足が冷たくなる。
目の前に立つアブちゃんの輪郭が、ぼんやりと滲んで見えた。
信じられない光景が広がっていた。
アブちゃんの体が、ふわり、と宙に浮かんでいる。
重力を無視したように、ゆっくりと、現実離れした動きで、基地の中央――街灯のポールの上へと引き寄せられる。
アブちゃんの足は地面から数十センチも浮き上がり、彼の髪が、空気の流れに逆らうように逆立っていた。
僕も、けんちゃんも、としちゃんも、ただ茫然とその光景を見つめていた。
声も出せず、身体は金縛りに遭ったように動かない。
息苦しさと、冷たい汗が背中を伝う。
アブちゃんは、無言のまま、ポールの頂上にアッガイを、そっと置いた。
彼の表情は暗がりに溶け、目だけが異様に大きく光って見えた。
ポールの上に置かれたアッガイのプラスチックの体が、街灯の淡い光に照らされ、どこか不吉な艶を放っていた。
アブちゃんは、ゆっくりと地面に降り立ち、ひと呼吸おいた後、僕たちに背を向けて基地の外へと走り去った。
その足音は、乾いた土を蹴る音とともに、基地の薄闇に吸い込まれていった。
残された僕たちは、声を出すことも、顔を見合わせることもできなかった。
沈黙が、基地全体を圧し潰すように広がっていた。
遠くで犬の吠える声が聞こえ、風が一陣、枯葉を巻き上げた。
僕の喉はカラカラに渇き、舌が上顎に張り付いていた。
身体はまだ震えていたが、足だけは本能的に動いた。
としちゃんが無言でランドセルを手に取る。
けんちゃんも続き、僕たちは一言も交わさずに基地を後にした。
帰り道の夕焼けが、異様に赤く、背中を焼くように感じられた。
翌朝、教室はいつもより静かだった。
アブちゃんの席は空のまま。
担任の先生が、「アブちゃんは今日、お休みです」と短く告げた。
僕たちは互いに目を合わせることなく、机に向かった。
指先は、まだ昨日の感触を覚えている。
翌日には、アブちゃんが急に引っ越したことを知った。
理由は誰も教えてくれなかった。
彼の机には、何も残っていなかった。
それ以降、僕たちは口裏を合わせたわけでもないのに、誰一人として秘密基地には行かなくなった。
けんちゃんが「おもちゃ、回収しとかんと」とぼそりと言い、仕方なく三人で再び基地へ向かった。
基地は、あの日のまま、静かに時を止めていた。
薄暗い中、かすかに埃とプラスチックの匂いが漂う。
としちゃんは、ミニカーを拾い上げ、僕は自分のガンダムのパーツを掴んだ。
けんちゃんも黙ってランドセルに何かを詰め込んでいた。
帰り際、としちゃんがふと「夢やったんやよな」とつぶやいた。
その声は、どこか自分自身に言い聞かせるようで、基地の中に淡く響いた。
彼は、基地の真ん中の街灯のポールを、何気なく足で蹴った。
その瞬間、ポールの上から何かが落ちる乾いた音がした。
振り向くと、としちゃんの背後に、アッガイが転がり落ちていた。
そのアッガイは、左腕が溶けたように形を失い、まるでチョコレートが夏の暑さに負けて崩れたような、異様な艶と形状だった。
僕たちは声も出せず、ただそれを見つめた。
基地の空気が、突然、ひやりと冷たくなる。
アッガイの黒光りするボディと、どろりとした左腕。
その姿は、現実と非現実の境界を曖昧にし、僕の心に深く、暗い影を落とした。
それ以来、ガンダムのモビルスーツを見るたび、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
あの日、秘密基地で感じた恐怖と、不思議な宙に浮くアブちゃんの姿、そして溶けたアッガイの不穏な残像――。
今でも、時折、夏の終わりの夕暮れになると、あの基地の土とプラスチックの匂いが、ふいに蘇る。
怖い話:放課後の秘密基地に現れた“浮遊”する友達と、溶けたアッガイの不穏な記憶
放課後の秘密基地に現れた“浮遊”する友達と、溶けたアッガイの不穏な記憶
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