春の雨が降った翌朝、教室の窓際にはまだ薄い水滴の跡が残っていた。
中学一年の教室は、どこか湿った土の匂いが漂い、まだ慣れない制服の襟が首筋にちくちくと触れる。
僕は教室の一番後ろの席に座り、窓の外に広がる曇り空をぼんやり眺めていた。
その日、静かな国語の授業の中で、隣の席の彼女が小さく息を呑んだのがわかった。
机の下から、微かな水音が聞こえた気がした。
ふと視線を落とすと、教科書の角に光る粒がひとつ、床に落ちていた。
「……」
彼女はうつむいたまま、肩を震わせていた。
教室の喧騒は遠く、雨後の静寂のように、二人の周囲だけ時間が止まっているようだった。
誰も気づいていない。
いや、誰にも気づいてほしくない。
そう思った。
僕は黙って席を立った。
椅子の脚が床を引っかく音だけが、妙に大きく響く。
先生の視線を背中に感じながら、教室を出る。
廊下には、まだ子供っぽい声が遠く響いていた。
手洗い場の蛇口をひねると、冷たい水がバケツに跳ねる音がした。
鉄の匂いと水の匂いが混じり合い、心臓の鼓動が少しだけ静まった。
「どうしたんだ?」
背後で先生の声がしたが、僕は何も言わず、バケツを持って教室に戻った。
教室の扉を開けた瞬間、みんなの視線が一斉に集まる。
彼女の肩はまだ震えている。
僕は無言で、バケツの水を彼女にぶっかけた。
水は制服に、床に、しぶきを散らして広がり、教室は一瞬、時を忘れたように静まり返った。
その後、ざわめきが爆発した。
「何やってるの!」
「やばい、どうしたの?」
先生が駆け寄り、誰かが叫ぶ。
僕の両親はすぐに学校に呼ばれ、僕はなぜそんなことをしたのかと何度も問い詰められた。
母の声が涙ににじむ。
父の手は無言で僕の肩を押さえた。
だが、僕はただ黙っていた。
理由を言葉にすることが、なぜかとても恥ずかしく、怖かった。
夕暮れが窓の外を茜色に染めていた。
家に帰ると、玄関の戸が小さくノックされた。
戸の向こうに、彼女とその母親が立っていた。
彼女は小さな声で「ありがとう」とだけ言い、深く頭を下げた。
あの時の彼女の瞳は、雨上がりの空のように澄んでいた。
時が過ぎた。
季節は何度も巡り、桜の花びらが風に舞う春の日、彼女は僕の隣に座っていた。
制服は白いドレスに変わり、あの日の涙も、しぶきも、すべて静かに流れていった。
今、彼女は僕の妻だ。
あの春の水音は、今も心のどこかで優しく響いている。
感動する話:水の記憶、春の終わりに
水の記憶、春の終わりに
📚 小説 に変換して表示中
読了
スワイプして関連記事へ
0%
記事要約(300文字)
ダミー1にテキストを変換しています...
0%
変換中
コメント