僕の人生に、思いもよらぬ非日常への扉が開かれたのは、あの冬の夜、最寄り駅から徒歩三分の古びた立ち飲み屋でのことだった。
駅前の通りには、終電間際の人いきれと、アスファルトに染み付いた酔いどれの残り香が漂っていた。
ネオンの光が湿った歩道を照らし、空気はどこか湿っぽい。
僕は、七年前のその日、引っ越ししたばかりで、まだ誰ひとり知り合いのいないこの街を、毎晩ただひたすら歩き続けていた。
部屋の灯りは冷たく、スマートフォンの画面を見つめても、連絡を取るべき相手がいなかった。
孤独は、静かな痛みとなって、胸の奥に沈殿していた。
立ち飲み屋の扉を押し開けると、すぐに鼻腔を満たすのは焼き魚とホッピーの混ざった匂い。
カウンターの古い木材には、無数のグラスの輪染みが刻まれている。
ささやかな心地よさと、どこか取り残されたような寂しさ。
その夜も、僕は一人で缶ビールを握りしめるようにして、カウンターの端の席に立った。
その瞬間だった。
店の奥で一際目立つ、派手な紫色のストールを巻いたおばさんが、僕を見た途端、まるで映画のワンシーンのように「ギャーッ!」と甲高い悲鳴をあげた。
周囲の客たちが一瞬静まり、空気がピンと張り詰める。
僕の鼓動が一拍遅れて跳ね上がり、喉の奥がきしむように渇いた。
けれど、驚きよりも先に、僕の中を通り過ぎたのは、なんとも言えない脱力感だった。
なぜなら、僕はこれまでにも数回、見知らぬ人に唐突に叫ばれた経験があったからだ。
理由はわからない。
ただ、自分には何か「普通ではない」ものがまとわりついているのかもしれない、そんな漠然とした不安が、心の奥底に沈んでいた。
だから僕は、その夜も「またか…」と心の中で舌打ちし、なるべく視線を合わせないようにして飲み続けた。
だが、そのおばさんは他の人たちとは違っていた。
ただ避けるのでも無視するのでもなく、むしろ僕にぐいぐいと歩み寄ってきたのだ。
彼女の歩みは、まるで店内の空気を切り裂くような勢いがあった。
近づくにつれ、彼女の香水と線香のような匂いが混ざり合って、どこか異国めいた香りが漂った。
「ね、どこから来たの?何の仕事してるの?両親は元気?どうしてこの店に?」
矢継ぎ早に、息継ぎもせず、まるで尋問のように質問を連発する。
彼女の目は、底知れぬ何かを見透かすような鋭さと、どこか慈しみのような柔らかさが混ざっていた。
僕は最初こそ戸惑ったものの、「こんなおばさんの友達も悪くないかもしれない」と、どこか半ばヤケクソのような気持ちで、ぽつぽつと答えていた。
彼女の問いかけのテンポは、こちらの心の壁を一枚ずつ剥がしていくようで、気づけば僕は、これまで誰にも話したことのないような個人的なことまで口にしていた。
数日後の晩、また同じ店で彼女に出会った。
今度は、やけに自信満々な口調で「今度、私の店に来てよ!」と言いながら、小さな金色の名刺カードを差し出してきた。
その名刺には、謎めいた漢字と「霊感相談」とだけ書かれていた。
正直、興味はまったく湧かなかった。
むしろ、その「上から目線」の誘い方にむっとして、店を出るときにはカードをポケットから取り出して、近くのゴミ箱に放り込んだ。
ほんの少しだけ、胸がちくりと痛んだのは、罪悪感なのか、何かを見逃してしまった予感なのか、自分でもよくわからなかった。
だが、運命というのは、時に人間のささやかな抵抗など意に介さない。
その数日後、また立ち飲み屋で彼女に出会ってしまう。
今度は、彼女だけでなく、痩せた背の高いおじさんと、二十代前半くらいの華奢な女性も一緒だった。
僕が「またか…」と心の中でため息をつく間もなく、彼女たちは僕を店の外へと連れ出した。
断る隙もなく、三人の間に挟まれる形で、僕は夜道を歩くことになった。
冬の夜気は、肺の奥までしみるように冷たく、吐く息が白く溶けていく。
周囲は静まり返り、遠くで電車の音が響く。
僕は、彼らの後ろ姿を追いながら、自分がどこに連れて行かれるのか、じっとりと汗ばむ手のひらをポケットの中で握りしめていた。
「絶対、宗教の勧誘に違いない…」
心の中で警戒心を高めながら歩く。
しかし、三人は無言で、時折目くばせを交わすだけで、まったく会話をしない。
沈黙は、夜の空気をさらに重苦しくした。
耐えきれず、僕は隣を歩く若い女性に「この辺、よく来るんですか?」と声をかけてみた。
彼女は一瞬びくりと肩を震わせ、「ヒィー!」と小さく叫び、僕から身を引いた。
その反応に、胸の奥に冷たいものが走る。
痩せたおじさん――後でヤスオさんと知るのだが――が、苦笑いを浮かべて「君が怖いんだよ」と呟いたとき、僕は自分が「普通ではない」ことを、またも突きつけられた気がして、どうしようもなく悲しくなった。
やがて、街外れの一角にある、看板も出ていない古い一軒家に辿り着いた。
玄関先には、色褪せた招き猫と、ほのかに線香の匂いが漂う。
踏みしめる床板はきしみ、薄暗い廊下には昔の家のような独特の冷気が満ちていた。
部屋の奥には、ちゃぶ台を囲んで座る中年夫婦がいて、湯気の立つお茶を丁寧に注いでくれた。
お茶の香りは、どこか懐かしさと安堵を運んできたが、その一方で、この家に満ちる空気には、説明のつかない重さがあった。
トキコさん――そう呼ばれていたおばさん――は、表情を引き締めて「始めましょう」と言い、僕たちを二階へと導いた。
階段を上がるたびに、板の隙間から冷気が漏れ、背筋がひやりとする。
二階の奥には、「タカオ」と名前が書かれたプレートのある部屋があった。
「何があっても、取り乱しちゃダメよ」
トキコさんは低く、それでいてどこか祈るような調子で僕に忠告した。
その言葉の重みを感じながら、僕の心臓は早鐘のように鳴り始める。
扉を開けると、そこで待っていたのは、中学生くらいの少年だった。
彼の目は血走り、髪はぼさぼさで、部屋の壁に爪痕のようなひっかき傷がいくつも残っていた。
少年は、トキコさんを見るなり、すさまじい勢いで飛びかかってきた。
その動きは、野生動物のような荒々しさと、どこか悲しげなものが混ざっていた。
「ガジャガジャ!」
聞いたこともない叫び声が、密閉された部屋の空気を震わせる。
僕が一歩近づくと、少年は一瞬で体を震わせ、ベッドの隅に後ずさった。
彼の目には、恐怖と混乱が入り混じっていた。
トキコさんは「どこでもいいから、叩きなさい!」と叫ぶ。
その声には、切迫した必死さがにじんでいた。
僕は、わけがわからないまま、少年の背中を強く叩いた。
その瞬間、少年の体がびくりと跳ね、口元から泡を吹いて倒れ込んだ。
部屋の空気が、重く、湿ったものに変わった気がした。
僕の手のひらには、いまだに少年の体温と、異様な冷たさが残っていた。
後から聞くと、タカオ君は半年ぶりにおとなしく眠ったらしい。
階段を降り、家を出た後も、僕の体は震えが止まらなかった。
帰り道、トキコさんに「一体何だったんですか」と問い詰めると、トキコさんはしばらく黙ったあと、「あんたは相当なモノを持ってるね」とだけ呟いた。
そのとき、隣のケイちゃんが、急にしゃがみ込んで吐いてしまった。
胃の奥からこみ上げるものと、彼女の顔に張りついた恐怖の色を、僕は忘れることができない。
僕は、自分の中に何が眠っているのかを知りたいと思った。
トキコさんは「守護霊とか、気とか、そういう類のものだよ」と淡々とした口調で答えた。
「いいんですか?」と尋ねると、彼女は「いや、最悪なんだよ」と、やけに重々しい声で言った。
「普通なら、とっくに命を落としていても不思議じゃないんだよ」と。
その晩、トキコさんのお店の奥、薄暗い和室の机の上で、僕の前には新札の十万円が積まれていた。
「中学生の背中を叩いて十万円なら、悪くないか」
そんな自嘲気味な思いと、胸の奥で渦巻く得体の知れぬ不安が、僕の心を交互に支配した。
その後、僕は一度留学でこの街を離れ、三年ぶりに戻ってきた。
再会したトキコさんは、「それ、逞しくなってるよ」と僕の肩を叩いた。
三年間、土日のたびに御祓いのバイトを続けているが、相変わらず「視えないものは視えない」。
それでも、あの家々の奥に流れる見えないものの気配と、仕事の後で必ず吐いてしまうケイちゃんの横顔を思うと、僕の中には申し訳なさと、どうしようもない責任感が残り続けている。
今も時折、冬の夜道を歩くと、あの立ち飲み屋の灯りと、トキコさんの甲高い声が耳元に蘇る。
あの日の焼き魚の匂いと、未知の世界の入口に立たされた夜の重さを、僕はこれからも忘れられそうにない。
不思議な話:駅前の立ち飲み屋で出会った「視えない世界」の入り口――御祓い屋トキコと不思議な人々との出会いと、その夜の空気
駅前の立ち飲み屋で出会った「視えない世界」の入り口――御祓い屋トキコと不思議な人々との出会いと、その夜の空気
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