不思議な話:見えざる手のひら――立ち飲み屋で始まる祓い屋奇譚

見えざる手のひら――立ち飲み屋で始まる祓い屋奇譚

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駅前のアーケードに、夕暮れの赤い光が斜めに差し込んでいた。
湿ったアスファルトに反射するその輝きは、まるで過ぎ去った日々の断片が、しぶとく残る記憶のようだった。
僕は、引っ越したばかりのこの街で、まだ誰の名も知らず、どこへも属さずにいた。
ただ、気軽な孤独を慰めるために、立ち飲み屋の暖簾をくぐった。

 その日もそうだった。
冷えたガラス越しに見える店内は、どこか懐かしい匂いがした。
焼き魚の煙、湿った酒の香り、そして人々の低いざわめきが、僕の心の奥に微かな安心をもたらしていた。

 だが、彼女は唐突に現れた。
ぽってりとした体躯に、年季の入ったコート。
僕が店の片隅の立ち席に腰掛けようとした、その瞬間だった。

「ギャーッ!」

 甲高い叫びが店内を裂いた。
一瞬、時が止まったようだった。
周囲の客が怪訝な顔を向ける中、僕はただ、静かにうつむいた。
知らない人間に叫ばれることは、それが初めてではなかったから。
むしろ、『またか』という諦めに似たものが、胸の底に沈んでいた。

 だが、そのおばさんは違っていた。
叫び声のあと、僕に向き直ると、間髪入れずに問いかけてきた。

「どこから来たの? 仕事は? 両親は元気?」

 矢継ぎ早の質問が、まるで尋問のように降り注ぐ。
最初は戸惑い、やがて苦笑する。
だが、奇妙なことに、彼女の強引さが不思議な興味を引き起こした。
「こんなおばさんの友達も、悪くないかもしれない」そんな考えが、ふと心をよぎった。

 数日後、彼女――トキコさんは、僕に名刺のようなカードを差し出した。

「今度、私の店に来て!」

 上から目線のその物言いに、なぜか反発心が湧いた。
カードは帰り道のゴミ箱に放り込んだ。
興味はなかった。
ただ、それだけのことだった。

 *

 季節は春へと移ろい、桜の花びらが風に舞うある日、再び立ち飲み屋で彼女に出会った。
今度は逃げられなかった。
トキコさん、そして痩せたおじさん――ヤスオさん、若い女性――ケイちゃん。
三人が僕を囲み、無言の圧力で「店」に連れて行こうとするのだ。

 「絶対、宗教の勧誘だよな……」

 疑念が、心の奥底で渦を巻いた。
だが、誰一人として道中、言葉を発しなかった。
その沈黙の重さに耐えかね、僕はケイちゃんに話しかけてみた。

「あ、あの……」

 彼女は小さな悲鳴を漏らし、肩をすくめた。
ヤスオさんが静かに言う。

「君が怖いんだよ」

 その一言が、胸にずしりと沈んだ。
僕は、何者なのだろう。

 *

 彼らに導かれて辿り着いたのは、雑居ビルの二階にある薄暗い店だった。
壁には色あせたお札や、奇妙なマンダラの絵。
空気はよどみ、線香の甘苦い香りが鼻をくすぐる。
宗教の勧誘ではないらしい。
ただの占いの館。
その事実に、どこか安堵した。

 だが、トキコさんは唐突に切り出す。

「一緒に仕事しない?」

 彼女たちは「御祓い」を生業としているらしい。
僕に協力してほしいと、真剣な眼差しで訴えてくる。
幽霊も神様も信じない僕には、荒唐無稽な話にしか思えなかったが、土日のアルバイトなら、と軽い気持ちで頷いてしまった。

 *

 次の週末。
薄曇りの空の下、○○区の住宅街を自転車で走っていると、トキコさんから電話が入った。

「歩いて来なさい、アホ!」

 ぶっきらぼうな叱責に苦笑しながら、自転車を道端に停めた。
指定された家は、静かな住宅地の一角に立つ、ごく普通の二階建てだった。
玄関をくぐると、ほのかに漂う畳の匂い。
中年夫婦が迎え入れ、温かいお茶を差し出してくれた。

 『タカオ』と書かれた二階の部屋へ案内される。
トキコさんが振り返り、静かに告げる。

「何があっても、取り乱すなよ」

 その言葉が、妙に現実味を帯びて胸に残った。

 扉を開けると、部屋の隅にひとりの少年がいた。
中学生ほどの年齢。
彼の目は、どこか焦点が合わず、獣のような低い唸り声を上げていた。
突然、トキコさんに向かって飛びかかろうとする。
その姿に、僕の背筋が冷たくなる。

「ガジャガジャ!」

 少年の叫びが部屋中にこだました。
だが、僕が一歩近づくと、彼は怯えたように震え、ベッドの隅へと逃げていく。
トキコさんが叫ぶ。

「体のどこでもいいから、叩け!」

 戸惑いながらも、僕は少年の背中を平手で叩いた。
その瞬間、彼の体が弓なりに反り返り、白い泡を吹いて倒れた。
静寂が訪れた。
それは、嵐の後の静けさのように、不気味なほどだった。

 *

 帰り道。
街路樹の葉が風に揺れ、夕暮れの光がアスファルトを朱に染めていた。
僕はトキコさんに問いかける。

「……意味が分かりません」

 ケイちゃんは、途中で道端にしゃがみこみ、苦しげに吐いた。
僕のせいなのだろうか。
胸の奥が、じくじくと痛んだ。

「アンタは、相当なモノを持ってるね」

 トキコさんの言葉は、どこか遠い世界の響きのようだった。
守護霊や、気。
僕には見えないものばかりだ。
「それで、いいんですか?」と訊けば、「いや、最悪なんだ」と彼女は呟いた。
普通なら、生きていること自体が奇跡だと。

 *

 その日、僕はトキコさんの店で、十万円の封筒を手渡された。
中学生の背中を叩いて十万円。
それだけのこと。
だが、その夜、眠れぬまま天井を見つめていた。

 あれから三年、僕は留学から戻り、再びこの街にいる。
トキコさんは、「逞しくなったじゃない」と笑った。
今も、見えないものは見えないままだ。
御祓いのバイトを続けている。
ケイちゃんは、帰り道にいつも吐く。
僕のせいなのだろう。
申し訳なさだけが、心の奥に滲んで消えない。

 それでも、今日もまた、夕暮れの立ち飲み屋で、誰かの知らない声に耳を傾けている。
見えざるものが、僕の背中をそっと押しているような気がして。
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