――あの日のことを思い出すと、今も胸の奥がほんのり熱くなる。
季節は春の終わり、街に新緑が芽吹き、窓の外からは柔らかな夕暮れの光が差し込んでいた。
まだ新人だった私は、慣れない業務に追われ、肩にどこか重たさを感じていた。
時計の針が定時を僅かに過ぎた頃、オフィスの空気にようやく安堵の気配が漂い始める。
蛍光灯の下、白い壁と灰色のカーペットが淡く金色に染まり、机の上に置かれた書類の端が、窓から混じり込む春の風に微かに揺れていた。
その日、三年先輩のTさんと私は、連れ立って帰ろうとしていた。
Tさんは、いつも凛とした佇まいで、けれど控えめな笑顔を絶やさない人だった。
彼女の手には、シルバーのフレームが陽を弾くキックボード。
折りたたみ式で、当時はまだ珍しかったそのアイテムは、Tさんの新しもの好きな一面を象徴しているようだった。
彼女は自分の机の下からキックボードを引き出し、手でハンドルを撫でるように触れていた。
その仕草には、少しだけ誇らしげな、そして愛着の混じる柔らかな温度があった。
そこに、重ための足音とともに現れたのが、ベテラン社員のKさんだ。
彼のスーツは一日の疲れを吸い込んで少しくたびれていたが、目元にはどこか茶目っ気が残っていた。
KさんはTさんの手元にあるキックボードに視線を落とし、眉を僅かに上げる。
その瞬間、空気がふっと張り詰める。
私の耳には、パソコンのファン音や遠くのコピー機の作動音が、妙に鮮明に響いていた。
「俺、これ乗ったことないんだよな。
」
Kさんの声は低く、しかしどこか羨望と好奇心が混じっていた。
Tさんは一瞬驚いたように目を丸くし、けれどすぐに唇の端を上げて、軽やかに返す。
「じゃあ、乗ってみます? ここで。
」
その言葉は、まるで小さな石を静かな水面に投げ入れたように、場の空気に波紋を広げた。
冗談のつもりだったのだろう。
Tさんの声には、軽やかな期待と、ほんの少しの緊張が混じっていた。
私の心臓が、なぜか不意に早鐘を打ち始める。
だが、Kさんは一瞬の逡巡も見せず、Tさんの手からキックボードを受け取った。
彼の手がハンドルを握ると、金属の冷たさがわずかに伝わってきたのか、Kさんの指先が微かに震えたように見えた。
私はその光景に、息を呑んだ。
そして、Kさんはゆっくりとキックボードに片足を乗せ、もう片方で床を蹴る。
オフィス内に、思いがけず軽快なタイヤの回転音が響いた。
Kさんの背中が、スーツのしわごしに夕陽のオレンジ色を帯び、彼の動きに合わせて光と影が伸びていく。
狭い通路をすべるその姿は、まるで時空が歪んだように、現実と非現実の境界を曖昧にしていた。
その瞬間、Tさんは完全に固まっていた。
手に残った温もりを持て余し、口元が半開きになる。
私も、驚きと戸惑いの間で思わず息を止める。
S部長が遠くから事の成り行きを見守っていた。
彼の目は大きく見開かれ、口は呆然としたまま、まるで映画のワンシーンを見ているかのようにKさんを凝視していた。
オフィスの空気が、一瞬で変わった。
普段は静けさが支配するその場に、軽快なタイヤ音と、誰もが息を潜める沈黙が共存した。
私は、Kさんの姿を追いながら、自分の手のひらが汗ばんでいることに気づいた。
キックボードが床をなめらかに滑る音は、まるで時折吹きぬける春風のように、どこか心をくすぐった。
Kさんは、オフィスの端から端までをあっという間に駆け抜け、何事もなかったかのようにキックボードをTさんへ返す。
その動作はごく自然で、まるで日常の一部かと錯覚するほどだった。
Kさんは小さく頷き、自席へと歩き出す。
残された私たちは、まだ余韻の中にいた。
数年の時が流れ、私はあの日の出来事を再び思い出すことになる。
KさんとTさんの結婚式――その二次会の賑やかな喧騒の中、私は酔いの勢いも借りて、Kさんにあのキックボード事件の真相を尋ねてみた。
Kさんは一瞬考えこむ素振りを見せたが、すぐに「そんなことあったっけ?」と屈託なく笑った。
彼の笑顔には、長い残業と積み重なる日々に生まれた疲れと、どこか少年の面影が重なる。
その時、Tさんが隣で微笑んでいた。
あの日と同じ、少し照れたような笑顔だった。
会場に流れる花の香りと、グラスのきらめき――それらがあの春の夕暮れの記憶と重なった。
数年の間に、ふたりは静かに愛を育んでいたのだと知った私は、胸の奥に温かな風が吹き抜けるのを感じた。
今もふたりは、同じ歩幅で人生を歩んでいる。
あの日オフィスを駆け抜けたキックボードの音は、私の記憶の中で、春の夕暮れと共に静かに響き続けている。
仕事・学校の話:黄昏のオフィス、キックボードが描いた一瞬の軌跡と心の余韻
黄昏のオフィス、キックボードが描いた一瞬の軌跡と心の余韻
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