オフィスの窓の外、夕闇がゆっくりと街を染め始めていた。
蛍光灯の光だけが、机の上に散らばる書類の白さを際立たせている。
私は、まだ新人だった。
季節は初夏、空調の風がほのかに汗ばんだ首筋を撫でていく。
三年先輩のTさん――栗色の髪を後ろでまとめ、いつも何か新しいものを持ち歩いている女性だ。
今日も彼女は、流行のキックボードを片手に「帰ろう」と私に微笑んだ。
その時だった。
背後から、柔らかな足音が近づいてきた。
ベテラン社員のKさん。
無精髭に疲れた目。
残業続きのせいか、彼の背中はどこか影を落としていた。
「それ、なんだ?」
Kさんの声は、低く穏やかだった。
「キックボードですよ。
最近、通勤に使ってるんです」
Tさんは、彼女らしい明るさで答えた。
キックボードのハンドルをくるりと回し、その銀色の車体を誇らしげに掲げる。
「俺、こういうのに乗ったことがないんだよな」
Kさんは指先で車輪を弾いた。
その仕草に、何故だろう、私は妙な緊張を覚えた。
Tさんは冗談めかして、こう言った。
「じゃあ、ここで試してみます?」
小さな笑いが空気を和らげるはずだった。
だがKさんは、ほんの一瞬だけ表情を曇らせ、次の瞬間にはキックボードを受け取っていた。
そして――彼は、何のためらいもなく、オフィスの床を滑り始めた。
蛍光灯の下、Kさんの背中がすっと伸び、キックボードはカーペットの上を音もなく駆けていく。
パソコンのファンの唸り、どこかで誰かがコーヒーを啜る音。
すべてが一瞬、遠ざかった。
私は声も出せず、ただその光景を見つめていた。
Tさんもまた、まるで時が止まったように、ぽかんと口を開けていた。
S部長の机の前を通り過ぎるとき、部長は書類の山から顔を上げ、言葉を失ってKさんを凝視した。
その目は何かを問いかけているようにも、ただ呆気にとられているようにも見えた。
Kさんは、オフィスの端から端まで、ほんの数秒で滑り抜けた。
銀色のキックボードは、まるで都会の川を渡る魚のように、静かに、しかし確かに存在感を残して。
何事もなかったかのようにKさんはTさんの前に戻り、無言でキックボードを返した。
「ありがとう」
その一言だけを残し、自分のデスクへと歩み去る。
その背中は、いつものように疲れて見えたが、どこか、ほんの少しだけ軽やかだった。
*
数年後。
季節はめぐり、春。
桜の花びらがホテルの窓をかすめて舞っていた。
ウェディングドレスに身を包んだTさんと、Kさんが同じテーブルに並んでいる。
二次会の喧騒の中、私はあの日の出来事をKさんに尋ねてみた。
「え? そんなこと、あったっけ?」
Kさんは笑いながら首を傾げる。
Tさんは、少しだけ頬を赤らめていた。
たぶん、あの時のKさんは、ただ疲れていたのだろう。
あるいは、Tさんと同じ世界をほんの一瞬だけ覗いてみたかったのかもしれない。
オフィスの片隅で起きた、ささやかな奇跡。
その記憶は、今も私の中で静かに色褪せずにいる。
そして今、二人は夫婦となり、穏やかな春の夜に寄り添っている。
オフィスの蛍光灯の下で見た、あの一瞬の自由。
あれはきっと、二人だけの予兆だったのかもしれない。
仕事・学校の話:午後六時、キックボードは静かに駆け抜けて
午後六時、キックボードは静かに駆け抜けて
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