朝靄が窓辺に淡く立ちこめ、街の輪郭をぼやかしていた。
私はまだ眠気の残る頭で、コーヒーカップを両手に包み込む。
苦味が舌の奥を刺激し、静かな午前の気配が部屋を満たしている。
ふいに、古ぼけた辞書のページがめくられていく音がした。
昔から言葉には不思議な縁がある。
名前、呼び名、響き――それらがまとわりつく日々の中で、私はしばしば同じ問いに立ち止まるのだ。
たとえば、「ボリショイ大サーカス」という言葉を思い浮かべる。
ロシア語で「ボリショイ」は「大きい」という意味だ。
だから、あのサーカスの名は、「大きい」が二度も重なる。
一体、誰がその重なりに気づくのだろう。
ある冬の日、友人のイリーナが紅茶を注ぎながらつぶやいたことがある。
「私たち、わざと二重に言葉を重ねてしまうのよ。
何か、安心するのかしら」
彼女の声は、遠い北国の風のように冷たくも優しかった。
似たようなことは、身近な食卓にもある。
「チゲ鍋」――鍋の中で煮える具材たちを見つめながら、私はふと苦笑した。
「チゲ」はもともと「鍋」の意味なのだ。
つまり、「鍋鍋」。
人はなぜか、同じ意味を重ねることで、より親しみやすく、温かく感じるのかもしれない。
クーポン券。
手にした厚紙の端が指にひんやりと触れた。
「クーポン」は「券」なのに、また「券」をつけてしまう。
「券券」……私の頭の中で静かに響く反復。
言葉の重なりは、地名にも息づいている。
春、まだ雪の残る海岸線を歩いたとき、私は「襟裳岬」という文字を見つめていた。
「襟裳」はアイヌ語で岬を意味し、「岬岬」となる。
打ち寄せる波の音の中で、遠い昔の人々がこの地に名を与えたときのことを想像した。
重ねることで、何か大切なものを守りたかったのだろうか。
旅先のハワイで観た「フラダンス」の舞い。
あの「フラ」は「ダンス」の意味だという。
だから「ダンスダンス」。
踊り手の足音が夜の浜辺に優しく響いた。
言葉の重複が、異国の空気に溶け込んでいく。
「スキー板」もまた同じ。
ノルウェー語で「スキー」は「板」だ。
雪の降る朝、白銀の斜面に自分の足跡を刻みながら、私は自分自身の名の重なりについて考えていた。
そういえば、「アラーの神」という言葉。
不意に、礼拝堂の静謐な空気を思い出す。
「アラー」は「唯一神」。
だから「神神」となる。
人は祈るとき、重ねて名を呼び、願いをこめる。
歴史の講義で聞いた「イスラム・シーア派」の話。
「シーア」は「派閥」の意。
だから「派派」。
先生の声が、教室の窓の外の風と混ざって、どこか遠くへ消えていった。
色彩の世界にも、それはあった。
「トリコロールカラー」という言葉。
「コロール」は「カラー」だ。
だから「三色色」。
フランス国旗の青・白・赤が、夕暮れの空にゆっくりと溶けていく。
砂漠の国を旅した記憶が、乾いた風とともに甦る。
「サハラ」は「砂漠」を意味し、「サハラ砂漠」は「砂漠砂漠」。
砂粒の一つ一つが、時の記憶を抱えているようだった。
河の流れもまた、名の重なりを秘めている。
「ガンジス川」は「川川」。
サンスクリット語の響きが、ゆったりと水面を渡っていく。
「ナイル川」「インダス川」「メナム川」「メコン川」「アムール川」……いずれも、その名に「川」を宿している。
私は世界地図を広げ、川の名を指先でなぞった。
水の流れは、どこまでも重なり合い、やがて海へと注がれていく。
言葉は時に、私たちの知らぬうちに、同じ意味を重ねていく。
それは、安心なのか、祈りなのか。
重なりの中に、私たちは自分自身の居場所を見つけようとするのかもしれない。
カップの底に残った最後の一滴が、静かに朝の静寂に溶けていった。
笑える話:言葉の岸辺で――重なり合う名の記憶
言葉の岸辺で――重なり合う名の記憶
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