その日の朝、私はいつもより少し早く目覚めていた。
窓を透かして差し込む初夏のやわらかな光が、レースのカーテン越しにぼんやりと部屋を照らしていた。
けれど、胸の奥ではどこか重苦しいものが渦巻いていた。
今日が友人の結婚式であること――そして、もう何年も会っていない元彼が出席することを知っていたからだ。
鏡の前に立ち、淡いブルーグレーのドレスを肩にかける。
布地のひんやりとした感触がうなじにまとわりつく。
指先で緩やかに髪をまとめると、ほのかにシャンプーの香りが立ち上る。
心なしか、今日の私はほんの少しだけ表情が硬い。
唇に薄くピンクを引く手が、わずかに震えていた。
会場は、歴史ある洋館をリノベーションした趣深いレストランだった。
大きなガラス窓からは、緑濃い庭園と、初夏の陽射しに照らされた噴水が見渡せる。
会場内はたくさんの花で彩られ、ひんやりとした空調の中に、白いユリと甘いワインの香りが漂っていた。
私は受付を済ませ、ゆっくりとホールに足を踏み入れた。
絨毯の柔らかな感触と、ヒールの微かな音。
周囲では親しい友人たちが、久しぶりの再会に小さな歓声を上げている。
その中に、彼の姿を探す自分がいた。
――彼、大学時代に4年間付き合っていた元彼。
私たちは、将来への期待や不安、ささいな価値観の違いに気づき始めた就職活動の春、穏やかに別れた。
よくある話だと自分に言い聞かせてきたけれど、その別れの記憶は、私の中で今もどこか淡く疼いていた。
披露宴が始まると、会場はグラスの触れ合う音や、柔らかなピアノの生演奏、ゲストたちの笑い声で満たされていく。
私は自分の席に座り、ナプキンを膝に乗せる。
その瞬間、ふと視線の先に彼がいた。
少し伸びた髪、変わらぬ眼差し。
彼は、私に気付いたのか、ほんの少しだけ口角を上げて微笑んだ。
そのさりげない仕草に、私は無意識に息を飲んだ。
何年も会っていなかったのに、彼の存在はあまりにも自然で、記憶の中の彼そのままだった。
安堵と、どこか胸が締め付けられるような感覚が交錯する。
しかし、その安堵はほんの一瞬だった。
乾杯のグラスが鳴り響く中、友人達のざわめきと共に、誰かがふいに口にする。
「そういえば、昔二人って付き合ってたよね?」場の空気が少しだけ変わる。
笑い混じりの好奇心の視線が、私たちに注がれる。
私は笑顔を作りつつ、心の中では逃げ出したい気持ちが膨らんでいく。
手にしたシャンパンのグラスが、わずかに揺れているのがわかった。
私はそっと席を立ち、会場を抜けてテラスに出た。
外気はわずかに湿り気を帯びていて、夜の帳が降りはじめた空には、淡い群青色が広がっていた。
遠くで虫の声が聞こえ、庭のバラの香りがほんのりと漂う。
テラスの手すりに指先をかけると、冷たくて滑らかな金属の感触が、緊張した手のひらを刺激した。
バーテンダーが差し出してくれたカクテルを受け取り、私はグラスの縁を唇に当てる。
果実の香りと、微かなアルコールの刺激。
喉を通るたびに、さっきまでのざわめきが遠ざかっていく。
「別れた理由なんて、今思えば本当に些細なことだったな」。
一口飲みながら、私は過去の自分たちを思い出す。
夜の学食で語り合った夢、梅雨の雨に濡れて走った帰り道、初めて手をつないだ瞬間のあたたかさ――。
あの頃の鼓動や笑い声、触れ合う手の温度が、今もどこか身体の奥底に残っていることに気づいた。
ふいに、背後から足音。
柔らかな革靴の音と、ドアが静かに閉まる音。
振り返ると、そこに彼がいた。
テラスの淡い灯りに照らされて、彼の顔には少し緊張した影が浮かんでいる。
彼は一瞬ためらうように間を置き、「元気してた?」と、柔らかな声で話しかけてきた。
その声色は、かつて私が何度も聞いた、あの優しさを含んでいた。
胸が高鳴る。
声が出そうで出ない。
私はグラスを持つ手をきゅっと握りしめ、「うん、まあね」と、やっとの思いで答える。
彼は少しだけ微笑みながら、私の隣に立った。
ふたりの間に流れる静かな時間。
夜風が、私たちの髪をそっと揺らす。
遠くで聞こえる披露宴の賑わいが、まるで別世界のことのようだった。
彼が静かに言葉を続ける。
「別れてから、何人かと付き合った。
でも、お前といる時が一番自然で、楽だった。
今日、また会いたくて来たんだ。
……やり直したい、って思ってる」。
一瞬、世界が止まったような感覚になった。
心臓がドクンと音を立て、思わず息を呑む。
私は彼の顔を見つめ返し、冗談めかして「こんな友人の結婚式で、何言ってるの?」と笑ってみせた。
でもその声は、どこか震えていた。
心の奥底から、喜びと戸惑いが一気に溢れてくるのを感じた。
彼もまた、はにかむように微笑んだ。
その眼差しの奥に、かつての優しさと、今の決意が滲んでいる。
私はグラスを置き、そっと彼の方に体を向けた。
「……私も、そう思ってた」。
静かに、でも確かにそう伝える。
ふたりの間の距離が、ゆっくりと、けれど確実に縮まっていく。
テラスの夜風が、まるで祝福するかのように私たちを包み込む。
その夜、初夏の淡い光とカクテルの余韻の中で、私はもう一度、彼と向き合う時間を手に入れた。
会場のざわめきから少しだけ離れたこの場所で、ふたりだけの新しい物語が静かに始まろうとしていた。
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